社会
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社会 2009年06月25日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(75)
この時期を、後に徳次は“私の事業生活で最悪の状態”と言っている。眠れぬ夜が続いた。徳次はこの時、最後の覚悟も固めたという。徳次の思いつめた様子に不吉な予感がしたのか、妻の琴子は会社の親しい人に徳次の身辺の警戒を頼み、毎晩、誰かしらが泊まりに来る状態だった。 当時の辛かった思い出を同業の松下幸之助が語ったことがあった。「首つりでもせにゃならんかと思ったよ」。急に深刻な表情をする松下に、徳次も身につまされて相槌を打つのだった。 銀行からの融資条件に人員削減があった。しかし徳次は従業員を解雇するのなら、むしろ会社を止める方針でいた。ところがこの時、全従業員から「会社を倒すな!」という声が上がった。組合が自主的に希望退職者を募り、人員削減にもっていく。徳次は深く感謝した。同時に身を切られる思いであった。銀行融資が実現し、早川電機工業には再建の道が開けた。 「入るを計って出ずるを制す」。昭和25年の苦境が骨身にしみた徳次は、この戒めを再認識した。そして「不況は明日来る」という心構えで経営再建に踏み出した。昭和25(1950)年6月25日、緊縮の最中に朝鮮戦争が勃発した。 朝鮮戦争により日本は輸出が急増し、国内需要も拡大した。朝鮮特需である。早川電機工業でも在庫は一掃され、黒字に転じることができた。しかし徳次はこの景気を一時的なものと見て、緊縮営業の方針を変えることはなかった。 昭和27(1952)年は民間放送の全局17社が出揃った。NHKのみの時代より歌謡曲、浪曲、万才ほかの娯楽番組が増え、人気を呼んだ。そしてラジオ需要が激増し、業界は未曽有の好況を迎えた。 この頃、欧米諸国では既に1946(昭和21)年のアメリカによる放送再開をはじめ、テレビ放送が開始されていた。日本の開始は昭和28(1953)年2月1日である。日本は戦争によるテレビ研究の中断で、基礎技術の特許の大半はアメリカに取得されていた。10年近くのブランクがあるため、大きなメーカーも、テレビに魅力は大いに感じるものの、開発には消極的だった。
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社会 2009年06月24日 15時00分
東国原知事“ナメた要求”の裏事情 自民党は次期総裁候補条件をのむ
宮崎県の東国原英夫知事(51)は23日、県庁で自民党の古賀誠選対委員長と会談し、次期衆院選の出馬要請を受けて「次期総裁候補として戦う」などとする仰天条件を突き付けた。この“ナメた要求”に自民党内は怒り爆発。出馬を断る口実との見方もあるが、永田町関係者は「自民党は最終的に東国原氏の条件をのむ」と裏事情を読む。すべてデキの悪い“演出”だという。 政権与党の要職である選対委員長がわざわざ宮崎県庁まで足を運び、頭を下げて出馬要請した回答が“次の総裁候補にしてくれるならいいよ”ではメンツ丸つぶれだ。 そもそも麻生政権の支持率が急落する中、知名度抜群の東国原氏を担ぎ出して無党派層の票を獲得したいという自民党側の魂胆はミエミエ。それを逆手にとった東国原氏に高く売りつけられた格好となった。当然ながら党内の古参・重鎮議員の反発は強く、立候補が実現する見通しはいまだ立っていない。 ところが永田町関係者は、「これほどデキの悪いマッチポンプは見たことがない」として次のように指摘する。 「東国原氏は国政転身に意欲的であり、これまで何度も転身をチラつかせながら、結局は踏み切れなかった“ヘタレ”と見られている。自民党もまた、人気知事を担いだぐらいではどうにもならないところまできており、次期衆院選惨敗は避けられそうもない。そこで両者が“あ・うんの呼吸”で演出したわけですよ。何も『次期総裁にしろ』と言っているわけではなく、総裁候補にすればいいんだから」 つまり、東国原氏が「総裁候補」として衆院選を戦うことで自民党の刷新感を打ち出すのがひとつ。さらに、選挙で与党の座を死守したあかつきには総裁選への出馬を認めればいいだけだというのだ。 東国原氏は会談の中ではほかにも、国と地方の税源配分を5対5にすることなど全国知事会がまとめた要請を一言一句、自民党のマニフェストに盛り込んだ上で4年間で実現するよう約束することを条件に挙げた。古賀氏は具体的な回答をしなかったという。 古賀氏は出馬要請した理由について記者団に「自民党が自浄能力を発揮して国民の審判を受けられるように変わらなければならない。今の自民党にない新しいエネルギーが欲しいのでお願いした」と説明した。選挙区に関しては具体的に提示しなかったが、自民党幹部は「立候補する場合は比例代表になるのではないか」としている。 東国原氏をめぐっては昨年10月に中山成彬前国土交通相(宮崎1区)が衆院選不出馬を表明した直後、自民党が出馬を打診したものの、東国原氏が不出馬を表明した経緯がある。 一方、古賀氏の今回の行動には「お笑い芸人(出身者)に自民党が笑われた」(幹部)と批判があり、党内の混乱につながる可能性もある。麻生首相は「人の去就の問題だ。おちょくったような気持ちで言っているとは思わない」と述べた。
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社会 2009年06月24日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(74)
この間、徳次は当面の営業方針を立てた。会社はラジオ生産に帰ること、戦時下に拡張した生産設備を収縮すること、従業員の自然転退職や就職にできるだけ援助をする、暫定的に電熱器その他の電機器具を製作する、不用原材料や不用施設を売却処分する等だ。会社の生産設備は東京営業所が焼失したが、それ以外は無事だった。従って操業再開は可能だったが、資材不足はどうしようもなかった。当面は手持ちの残品に頼る以外にない状況だった。 昭和21(1946)年2月、預金封鎖が実施された。戦後のインフレ抑圧政策の一環だが、国民は筍の皮を剥ぐように衣類や持物を少しずつ売って生活費に充て、どうにか毎日を食いつなぐ“筍生活”に追い込まれた。 終戦直後の混乱期をしのぐと、早川電機工業は戦争中に拡大していた事業を縮小し、再びラジオ生産に専念することにした。けれども資材不足は深刻で、生産も売行きも伸びず、復興の道のりは険しかった。それでも次第に資材不足の状況が改善され、ラジオ需要も回復した昭和24(1949)年5月、早川電機工業は株式上場を果たした。 喜びも束の間、この年から翌25年にかけて日本を大不況が襲い、早川電機工業も存亡の危機に直面する。この時、それまであった80社を超すラジオ製造会社の倒産が相次ぎ、18社にまで淘汰された。 ドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政で一般の購買力が激減したのだ。 昭和25年4月、5月は製造を一時停止して在庫品の消化とラジオ部分品の販売に全力を注いだ。しかし前年の4割の売上でしかなかった。借入金は膨らむ一方だった。 その上、買控えを助長する噂が流れた。新放送法の制定により、民間ラジオ放送局が開設される機運にあったが、「民間放送が実現するとNHKとの間に電波合戦が起こり、従来のラジオでは民放が聞けない、別の受信機が必要になる」という報道がなされた。つまり民間放送局開局まで既存ラジオは買わないほうが賢明だというのだ。これでラジオの売行きがパッタリ止まった。
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社会 2009年06月23日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(73)
早川電機工業の近くにライト・ハウスという社会福祉の事業館があった。 創設者は岩橋武夫。早稲田在学中に失明し、英国エジンバラ大学に留学。帰国後は関西学院などで教えていたが、やがて大阪盲人協会を起こし、昭和10(1935)年、世界で13番目のライト・ハウスを建設する。ライト・ハウスでは点字図書館、点字出版、盲人の更生・援護相談所などの事業をおこなっていた。 戦火の厳しくなったある日、岩橋から徳次に、失明者のために何か電気について講演してほしいという依頼があった。 戦地で失明した軍人達も数を増して来ていた時期だ。徳次は笹尾ほか研究部の者を連れ、2日間の講演をおこなった。受講者は戦時下で途中失明した人達で、生きていくために徳次の話に耳を傾け、笹尾の実習を受けた。 講演から数日して、岩崎から改めて相談があった。ライト・ハウスの礼拝堂を改造して失明軍人の職場にしたいが、機械・器具、作業、技術指導まで奉仕してもらえないだろうかという内容だった。徳次は快諾した。盲目の井上さんの手のひらの温もりを思い出していた。 恩に報いる好機だと思った。早速、礼拝堂に二十数台の機械を入れ、失明軍人会館と改めた。そしてこれを無線機の部品の一部を作製する早川の分工場とした。 会社から技術指導者が出張し、作業を文字通り手を取って教えた。この分工場は後年、昭和25(1950)年、会社が経営危機に陥った際に身体障害者専用の工場、合資会社早川特選金属工場として分離独立させた。 昭和20(1945)年8月15日、終戦を迎える。その日、徳次もラジオから流れる玉音放送に耳を傾けた。 終戦の1週間後、徳次は故障ラジオの無料修理を実行した。新聞紙上に故障したラジオを無料で修理すると発表した。会社には連日、ラジオを抱えた人が押し寄せ、人の群れは20日ほど続いた。このアイデアは材料不要で持てる技術を即活用できるというところから出てきたものだ。
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社会 2009年06月22日 15時00分
将軍様の後継者は激太りAVマニア!?
北朝鮮の金正日総書記の後継者決定かと騒がれている三男・正雲氏(26)について、その人物像をめぐる噂が活発化している。バスケットボールが好きなさわやかスポーツ青年とのイメージが確立されつつあるが、裏では激太り説やAV愛好家情報が浮上。継承後の「喜び組メンバー増強」説まで流れている。 若かりし頃の正雲氏といえば、利発そうな顔立ちが印象的である。しかし出版関係者によると、いまは身長約170センチで体重90キロオーバーの激太りが心配されているという。 「5年前に実母・高英姫氏が亡くなってから酒におぼれ、スポーツマンだった頃の面影はないといわれている。プロゴルファーの片山晋呉選手を太らせた感じらしい。一部ではAV好きっていう情報も出ているし、この年頃の男性としては健全で、ある意味人間らしいんじゃないか」と出版関係者。正雲氏が“将軍様”の地位を継承した場合、かの有名な美女奉仕軍団「喜び組」のメンバーが大幅増強されることはほぼ確実ともいう。 さらに「スイスのベルン国際学校でバスケに熱中していた頃の正雲氏は、さわやかというよりもテニスの松岡修三氏ばりに暑苦しかった。ゲーム終了後、汗も流さず次の試合に向けて反省会を開いていたみたい。キャプテンシーはあるんだろうけど」と同関係者。 総書記ファミリーの私生活がストレートに語られることはまずないが、気になる情報ではある。
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社会 2009年06月22日 15時00分
Qちゃん、結婚より五輪招致!? 豪雨の中をハイテンション激走
2000年シドニー五輪マラソン金メダリストのQちゃんこと高橋尚子さん(37)が21日、豪雨の中、市民ランナーらと「高橋尚子と東京を走ろう!2016東京招致応援リレー」を走った。 3度のメシより走るのが好きといわれるQちゃんは、びしょ濡れになりながらも笑顔でフィニッシュ。「あいにくの雨でしたが、雨だからこそみなさんと一体になって走れた。いい思い出になったと思う。とても気持ちよかった」とやたらハイテンションだった。 五輪招致活動でのQちゃんの起用をめぐっては、昨年10月末に石原都知事がラブコール。東京オリンピック・パラリンピック招致委員会によると、本人もかねて協力したいとの意向があったという。4月のIOC評価委員会の視察に立ち会い、知事から招致応援ランナーの委嘱を受けた。 今回は引退後のQちゃんと一緒に走って五輪招致を盛り上げる初のイベントで、来月12日には駒沢オリンピック公園で第2回が予定されている。 さて、いくら招致のためとはいえ、これまでマラソン一筋でお年頃を迎えたQちゃんだけにイベントラッシュが“婚活”の妨げになるのだけは避けたいところ。 本紙の直撃にQちゃんは「婚期が遅れる? えっ、なんで? 今はイベントを楽しくやらせてもらっているので、それどころじゃないですね」と笑い飛ばした。結婚の予定はないという。 この日のコースは、国立霞ヶ丘競技場から晴海の新スタジアム予定地までの約10キロ。都心を10区間に分け、各区間を推定競争率10倍以上で作文選抜された市民ランナーがリレーし、スキー・ノルディック複合の荻原次晴さん、サッカーの松木安太郎さんらゲストランナーも加わった。Qちゃんは全区間を完走。
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社会 2009年06月22日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(72)
徳次は全工程を1000に分け、1工程を16分にした。16分ごとに無線機が流れ、1000人の工員が作業する。こうして後日、改善を加えて月250台を生産するに至った。 生産工程よりも、そのための準備のほうが大変だった。 まず400坪の組立工場の建設。そして内部の設備、機械据付などを2カ月で終えなければ12月早々の生産開始が困難になる。これも監督官は「3カ月かかってもいいから確実に完了する計画を立てるべき」と言ったが、徳次はむしろ2か月を少し縮めて48日で完成させる計画に変えた。 そしてさらに1日短い47日で完成させた。どうやったか。 まず徳次は請負業者を呼んだ。そして早川金属工業が1000円、業者が1000円の奨励金を出すことを提案した。 木材の買入から機械の据付まで、一切の仕事を細分し、それぞれの持ち場を期日までに終えれば奨励金と日当を合わせて支払う約束にしたのだ。 この奨励は見事に効果を上げ、47日目には新工場では機械が動き始めていた。 徳次は常に誠意と愛情をもって社員に接したが、中でも将来を担う若者達を育てることに熱意を注いだ。そんな若者達が次々と召集され、戦地に赴くようになっていた。 さらに昭和19(1944)年に軍需会社に指定されると、大阪・和泉府中に工場を開設。航空無線機関連の大量生産を始めた。 昭和20(1945)年、アメリカ軍は3月10日の東京大空襲に続き、3月13日の深夜から大阪を爆撃する。大阪大空襲である。 約2000メートルの低空からの夜間爆撃で、その後もアメリカ軍は8月14日まで何度かの空襲を仕掛け、大阪市の殆どが焦土と化した。徳次は「当たる時は当たる」と言って、空襲警報が鳴っても一度も防空壕には避難しなかった。 社長は肝が据わっている、と周囲は驚いたという。
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社会 2009年06月20日 15時00分
部下に手をつけたアラフォー上司の素顔(米原・汚泥タンク殺人事件)/不倫関係の清算目的か
滋賀県米原市の汚泥タンクで同県長浜市の会社員小川典子さん(28)が窒息死した殺人事件で、米原署捜査本部は19日、殺人容疑で小川さんの会社の上司で米原市坂口、森田繁成容疑者(40)を逮捕した。森田容疑者には妻子があり、交際をめぐって小川さんとトラブルが発生していた。部下に手をつけて最悪の幕引きをした疑いがかけられている、妻子持ちのアラフォー上司の素顔とは。 森田容疑者は近所では優しい子煩悩な父親として通っていた。ところが、事件発覚後は会社を休み、逮捕前の取材には動揺した様子がありあり。近所の目を気にして「名誉棄損」をチラつかせることもあった。 近所の人たちによると、休日に川で子どもとカニ採りをしたり、家族で買い物に行く姿がよく見掛けられていた。20代の主婦は「(事件のことは)信じられない」と話した。 十数キロ離れた勤務先まで車で通っていたが、現場の汚泥タンクは自宅から2、3キロ。捜査関係者によると、勤め先でもまじめな仕事ぶりだったという。 「こんな田舎で聞き回って、どうしてくれるんや」。事件発覚後の14日、森田容疑者は共同通信の取材に応じている。 車を米原市の自宅駐車場に止めた後の約15分間。取材されていることを知られたくないのか、近くの民家に目をやるなどしきりに辺りを気にする様子だったという。 小声で話していたが、記者が「犯人視していない。同僚の声を聞きたい」と告げると、関西弁で「ほんとやろな? 名誉棄損で訴えなくてはならなくなる」と語気を強めたという。 事件との関連性が疑われるのは、このとき森田容疑者が右手の指にけがをしていた事実だ。右手人さし指の先端に第一関節付近までばんそうこうを巻いているのを共同通信の記者が確認。米原署捜査本部は、小川さんともみ合った際にけがをしたか、タンクのふたで手をはさんだ可能性もあるとみている。 タンク周辺で血液反応が出ており、遺体には頭の陥没骨折のほか顔も殴られたようなあとがあった。 捜査本部はタンク周辺で小川さんに激しい暴行を加え、タンクに投げ込んだとみている。 森田容疑者は大手ガラスメーカーの社員で、小川さんは下請け会社の社員。ともに同県高月町にある工場に勤務し、2人は上司と部下の関係だった。 捜査本部によると、「殺害はしていない。殴ってもいない」と容疑を否認している。小川さんは10日午後8時ごろ退社、会社前で人を待つ姿が目撃されたが、その後行方不明になった。 小川さんの携帯電話の通信履歴などで、事件前に小川さんと会っていた疑いが浮上。日ごろから頻繁にメールのやりとりもしており、捜査本部は事件について事情を知っているとみて、19日朝から任意同行を求めて事情を聴くとともに、殺人容疑で自宅などを家宅捜索していた。
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社会 2009年06月20日 15時00分
長嶋茂雄氏VS写真誌「FRIDAY」ぼっ発、これがミスターらしからぬ激怒コメント全文だ
長嶋茂雄・巨人終身名誉監督(73)が写真誌「FRIDAY」(講談社)にケンカ状をたたきつけた。19日発売の同誌最新号に掲載された「長嶋茂雄に寄り添う田園調布の女帝の正体」記事に怒ったもの。長嶋氏をめぐるファミリービジネスについて報じている。同日、報道各社にFAX送信した抗議文には、ミスターらしからぬ激怒コメントがしたためられていた。以下、全文を掲載する。 「私はこれまで、多くの報道陣に対してかなり鷹揚と思われる対応をしてきたつもりです。少々間違って伝えられても、細かいことは気にしないで来ました。只、今回のように悪意に満ちた、全く事実と違う記事に対して、大変に憤りを感じています。5年前に病に倒れ、現在懸命にリハビリに取り組んでいます。 一昨年は家内に先立たれ、我が家を仕切るのは大変な努力が必要です。娘たち、義理の妹が献身的に支えてくれています。そうした善意をこの記事は真っ向から踏みにじるものです。誰かを悪者に仕立て上げ我が家を混乱させて押しつぶそうという輩とは、これからも断固戦う覚悟です。多くの皆様にご心配をお掛けしてはならないと、あえて今回の抗議行動に出ました。お騒がせしましたことをお詫びするとともに、ぜひご理解を頂きますようお願いいたします」 長嶋氏は記事の訂正と謝罪を求めている。
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社会 2009年06月20日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(71)
昭和12(1937)年7月7日、日中戦争が始まると、動員兵力の大陸派遣が増加。戦局を聞きたい国民のラジオ需要はさらに高まった。シャープの販売網も国内外に拡張を続けた。輸出先は満州を含む中国を始め、タイ(当時のシャム)、インド、インドネシア、オーストラリア、アフリカ、イギリスほか欧州各国、キューバ、メキシコほか南米各国と、全世界にわたった。 一方、同年には、第一次世界大戦中の大正7(1918)年に軍部の要求でつくられた軍需工業動員法が発動された。同法は、軍需品生産のためには、国は各種工場を調査および収用・使用することができることを定めた法律で、翌昭和13年には国家総動員法が制定される。 日本はいよいよ戦時色を強めていった。早川金属工業はラジオ・セットを一貫して製造したが、無線技術に対する国策に沿った要求もあった。太平洋戦争に突入した昭和16(1940)年、会社は陸軍航空本部監督工場に指定された。軍から監督官が配置され、機密保持のため工場の出入りは厳しくなった。 昭和17(1942)年に入ると資材入手が極端に困難になり、ラジオ生産も思うように進まない事態の中、社名を早川電機工業株式会社に変更し、同時に短波・超短波の技術研究所を設立した。7月に海軍から航空無線機の試作を要請されていた。数は30台。ラジオに比べ遥かに高度な技術が必要である。徳次は社の研究部と綿密に検討して引き受けた。納期は翌昭和18年1月10日だ。この5カ月間、研究部員は徹夜が何日も続いた。出来上がった無線機を2台、3台と少しずつ運び、ようやく納期までに30台を納品した。 しかし徳次はこの試作中に月産200台が可能という確信を持った。そして実現時期を同年12月として軍部に提出した。航空無線機の量産が求められていたのだ。 徳次の計画書を見た軍部派遣の監督官は「無線機がそんなに簡単に出来れば誰も苦労しない」と、相手にしなかった。徳次は得意の流れ作業による生産を考えていた。