社会
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社会 2009年05月28日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(51)
午後2時半頃、火は勢いを増してすぐ近くに迫っていた。屋上にバラバラと火の子が降り始めた。徳次達も避難することにして、今日3度目になる物干し台に上がり、周辺を見回した。 どの方角からも火の手は上がっていて、どちらに避難したらいいか見当がつかない。ただ、深川の岩崎別邸(現・清澄庭園)方面がいくらか安全そうだった。 「あっちはもう火の海です」と押上分工場の川本工場長(大正4年入社)が逃げてきた。徳次は子供2人に晴れ着の紋服を着せ、帽子の上から頬被(ほおかぶ)りをしてやった。そして、自分も工場の始末を終え次第、すぐに追いつくからと、川本に文子と煕治、克己を連れて1キロほど南の岩崎別邸に避難するように頼んだ。 文子にくっついていた弟の克己が、「お父ちゃんも一緒に行こうよ」と突然泣き出した。川本に手を引かれた煕治も心細そうにして立ち止まり、なかなか行こうとしない。 「お父ちゃんは工場の後始末をしたら、すぐ後から追って行くから」と半ば叱るようにして行かせた。後ろ姿を見送っていた徳次は、ふと嫌な予感を覚えたが、まさかこれが生涯の別れになるとはもちろん、考えてもみなかった。 旅支度の和服からモーニングに着替えた。そしてポケットというポケットに現金20円ずつを入れた。乾パンと鰹節、銀のコップを1個用意して上から冬の外套を羽織り、冬の帽子を被った。さらに手拭(てぬぐ)いで頬被りをして長靴を履く。怪我を防ぐことと、野宿の備えを考えたのだった。 ずいぶん着込んだが全く暑いとは感じなかった。 雨が降りそうだったので洋傘を1本持った。しかしこれは、火災の煙が空に立ちこめているのを曇っていると思ったのだ。 準備ができると、徳次は座敷の真ん中に椅子を持ち出し、腰を掛けて暫(しばら)くじっとしていた。喧騒の中にあって不思議なほどに平静だった。 そこへ朝鮮半島からきて工場で働いていた青年が2人、徳次を心配してやってきた。
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社会 2009年05月28日 15時00分
永田町血風録 地方の選挙に小沢隠密行動の効果が
政権交代への弾みになるのか。先日行われた、さいたま市長選で民主党県連が支持した元県議の清水勇人が当選した。 自民党系によるさいたま市“支配”に、終止符が打たれたわけだ。これまで、さいたま市民の間には閉塞感があり、「早い時期に風穴を開けなければいけない」との声が出てきていたが、それがようやく実現したことになる。 さいたま市長は合併前から5期、相川宗一前市長が務めていた。清水新市長は、保守(自民党系)が分裂した際に離党。その後、民主党県連の支持を得て今回の市長選に臨み、大差で当選を果たした。清水の鞍替えに加えて、自民党の中森福代前衆院議員(比例北関東ブロック)が無所属で立候補。保守票が割れることになり、それが選挙結果に影響を与えたことは間違いない。 民主党は「千載一遇のチャンス」とばかりに、鳩山由紀夫代表や菅直人代表代行らが清水の応援に駆けつけた。「鳩山が応援に入ってから弾みがついた」と、民主党県連の幹部は言っていたほど、効果は絶大だった。これに対して自民党の菅義偉選対副委員長は、「(民主党の)代表が応援に入ったことが(選挙結果を左右する)結果となって現れたといわれているが、そういうことは全くない」と、ヤセ我慢発言。自民党の一部には、「たかが、さいたま市という地方首長の選挙」と軽視する声もある。地方からジワジワと政治の流れが変わっていることに、まだ気づいていないのか。 民主党は小沢一郎を代表代行にして選挙担当に据えた。小沢はすでに地方行脚に入っている。お得意のステルス戦闘機並みの隠密行動も伝えられてくる。これまでの代表という足かせが取れたことで、思うがままに行動できるわけだ。 すでに地方の選挙では、全国のあちこちで小沢効果が出てきているといわれている。「地方の選挙を馬鹿にしてはいけない。その運動と結果は総選挙に直結するからだ。民主党はその地方票の掘り起こしが、自民党より一歩も二歩も進んでいる」といわれる。民主党は着々と総選挙の準備をしているといっていい。 「小沢の力はすごい。今度の選挙で、それなりに自民党を追い込めないようなら政界を去る覚悟がある。だから、真剣なんだ」(政治ジャーナリスト) 「最後は自民党の政策に国民が賛同してくれるはず…」と自民党内部には、まだ楽観論がある。さいたま市長選の結果に対する菅義偉のコメントも、そのいい例だろう。さいたま市は政令指定都市。だから中央政界に与える影響は大きい。 国会では久しぶりに党首討論が行われ、選挙ムードは盛り上がってきている。外野席から見ていると、自民党内に緊張感がまだないのが気になるが、国民は敏感であることを忘れてはいけない。(文中敬称略)
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社会 2009年05月27日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(50)
帰り着くと幸い、2人の幼子と妻、それに従業員達も異状はなかった。しかし就業中だった100人近くの従業員は、ただもう恐れ驚き、右往左往している。その間も揺り返しが頻(しき)りに襲ってくる。 徳次は工場の向かいの米屋から米2俵を買ってこさせた。米屋から帰ってきた工員の1人は避難する人で大混乱の道の様子を話して聞かせた。事務所にあった2つの金庫に重要品を納め、それから工場の機械類を調べて回った。 そうしている間に、工場が無事なのを知った付近の避難民達が続々と入ってきた。理性も自制も失って、ただワアワアと叫び合うこれらの人々で工場内は大混乱となった。 あちこちで火災が起きていた。昼食前で、どの家でも用意の最中だったところへ最初の揺れがきた。人々は煮焚(にたき)の火を消すことも忘れて戸外に逃げ出していたから、倒れた家屋の下から火をつけるような結果になっていた。さらに当時、台風の影響により関東地方全域に風が吹いていた。 屋根の物干し台に走り上がると、すさまじい火の手がそれほど遠くないあちこちから上がっているのが見えた。家族と従業員に大声で呼びかけて、すぐに火災の備えに取り掛かった。まず風呂いっぱいに水を張らせた。それから炊き出しの用意をした。しかし火を見て人々の混乱と恐怖は益々(ますます)高まった。 再度、物干し台に上がって火勢を見た徳次は、工場も家も類焼を免れぬであろうことを悟った。即刻、従業員を帰宅させることにして、政治をはじめ1人1人に衣類、布団などを配って頭から被らせ、米や金も分けて持たせた。 それを見ていた避難民達が徳次の元に押し寄せ、我れ先にと分けてくれるように叫びながら手を伸ばす。徳次は文子と一緒に、衣類、布団、食器、食糧品など、あらゆる物を誰かれの区別なく分けてしまった。 震災後、多くの見知らぬ人が感謝の手紙を送ってきたり、礼を言いに訪ねてきたりした。
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社会 2009年05月26日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(49)
腸出血で生死の境を彷徨(さまよ)った後、数カ月は床に伏せったものの、職場に復帰すると、また忙しい日々を送る徳次だった。発病後、1年半以上が過ぎていた。しかし「この際、少し療養したほうがいい」という周囲の勧めに従って塩原で湯治することにした。 仕事を何とか一段落させて、何度目かの引き継ぎも終え、出発の日を迎えた。 9月1日、その日は朝から異様に蒸し暑い日だった。空はどんよりと曇り、風ひとつない。午前11時、徳次は家を出た。文子と煕治、克己が門まで見送った。 生まれて初めての保養に一人で出かけるのを躊躇(ためら)う徳次に、巻島も2、3日付き合おうと約束してくれた。そこで、町内の巻島の家に寄った。上野には午後2時迄(まで)に到着すれば、列車には充分間に合う。 巻島の家でしばらく話をして、出発の前に散髪してこよう、と言った。時計は11時58分を指していた。その途端、徳次は座敷の片隅まで一気に跳ね飛ばされた。それからは、まるで大波に揺りあげられるような震動。言葉で言い表すことのできないような音響が辺りを包むように響いている。 障子がバタバタと倒れ、砂埃が渦を巻いて入ってきた。外からは人の叫び声がする。畳全体が波打つ。電灯の笠が落ちて大きい音を立てた。部屋の壁が落ち始めた。やっと這うようにして店まで出たが、徳次も巻島もすっかり気が動転していた。 「巻島さん、旅行どころではない。私は帰ります」。徳次は傍にあった座布団を被(かぶ)り外に飛び出した。 外に出て目にしたのは倒壊した家屋の数々、往来には悲鳴を上げ逃げまどう人々、倒れている怪我人、それらがもうもうとした土埃に包まれている。 1時間前に通った時とは姿が一変してしまった街。地面は一瞬も止まることなく上下している。巻島宅と徳次宅は目と鼻の先、200メートルほどの距離だったが、家まで帰るのがやっとだった。
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社会 2009年05月26日 15時00分
永田町血風録 総選挙へ“党内抗争”の激しさ増す民主党
民主党に、「鳩山─小沢」に対抗する“派中派”が誕生した。 党代表選で鳩山由紀夫に敗れた岡田克也を支援してきた議員たちが、東京都内で会合を開いた。そこで、その「岡田を支える有志会」が、会合を定期的に開く方向でまとまったのだ。 岡田は、小沢一郎前代表とは一線を画してきていて、党内では抵抗派とまでいわれていた。 「小沢は西松建設事件での責任説明をいまだに果たしていないのに有志を集めて、しかも民主党最大の支援団体である日本労働組合総連合会(連合)にうまく取り入って、影響力を保持しようとしている」(反小沢派議員) もともと連合は、旧社会党の支援母体だった。会長の高木剛はいつの間にか小沢に媚(こ)び諂(へつら)って、民主党の“御用団体”になってしまっている。今回の鳩山と岡田の党首争いで戦う前から鳩山有利となったのも、連合が鳩山を後押ししたからといわれている。 連合内部では、小沢の進退について代表続投と交代を求める声が交錯し、小沢との距離が広がった。だが、鳩山が小沢を総選挙のために筆頭代表代行にしたことで、連合と岡田との距離はさらに広がってしまった。 そこで岡田を応援してきた若手議員が中心になって、岡田の党内での存在感、発言力を保持しようと行動に打って出たといえる。 ある政治ジャーナリストが言うには、「民主党内で反小沢派の派中派が生まれることは時間の問題だった。主要メンバーには、党内では相当の実力者がそろっている。うかうかしていると、鳩山は足元を掬(すく)われかねない存在になる」そうだ。 岡田のほか副代表の前原誠司、幹事長代理の野田佳彦、川端達夫ら党内グループのトップも、名を連ねている。それに、今では党内ですっかり存在感が薄れた代表代行の1人、菅直人もグループのメンバー60人を引き連れてこれに加わった。 菅が「この岡田グループに加わっていないと、解散後、総選挙になった時、党内での身の置きどころがなくなる公算大」と読んでのことなのは、想像に難くない。さらには、党内での発言権を維持しようとの思惑も見え隠れする。 しかし、鳩山はその程度のことは歯牙にもかけていない。まずは自らの足元を固めようと地方遊説に力を入れている。それも小沢流に近いやり方で…。 「この派中派の出現が、かえって鳩山の闘志を掻き立てることになった。これまで以上に民主党はおもしろくなってくるよ」(前出・政治ジャーナリスト) 総選挙は間近。各種の世論調査ではわずかな差とはいえ、民主党有利が伝えられる。“党内抗争”も含めて、その動きからますます目が離せなくなってきたということか…。(文中敬称略)
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社会 2009年05月25日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(48)
大正11(1922)年2月、目の回るような忙しさは相変わらず続いていた。数日前から熱があり全身がだるかったが、徳次は風邪を引いたのだろうと思っていた。そんなことよりも京都市から受けた注文の製作に集中していた。菊の御紋を彫り込む14金の特製シャープペンシルで、皇后への献上品なのだ。徳次は必ず入浴して身を清めてから献上シャープペンシルの製作にかかり、この仕事の最中は他の者を寄せ付けなかった。ようやく仕上げた途端、徳次は床に倒れ込んだ。熱は40度にもなっていた。 文子からの電話で近くの医者が往診に駆け付け、診察してくれた。けれども翌日も、その次の日も熱が引かず、食事も受け付けなかった。3日目になっても熱は下がらず、徳次の衰弱がひどかったので、文子は徳次の姉や兄に電話をした。欣々が医学博士の碓居竜太を伴って黒塗りの馬車で駆けつけた。 碓居博士の診断は、悪性の腸出血ということだった。徳次が大量に吐血すると、碓居博士は、腸出血に詳しい東大の真鍋博士を連れて来るために欣々の馬車を借りて大急ぎで出かけた。真鍋博士は新薬の血清を携えて来た。そして到着するとすぐ、その血清を立て続けに注射した。この新薬はまだ一般には使用されていない貴重な物だった。 欣々の他に登鯉子、政治、熊八、ひさ、芳松夫妻が集まった。巻島夫妻はお百度参りをしていた。2人の医学博士から、一度は「もう時間の問題です」と宣言され、「あと10分でご臨終」とまで言われた徳次は、奇跡的に死の淵から生還した。 その後、2が月間は病床にあったが、桜の咲くころには半身起き上がれるようになり、八月末には初めて外出の許可がでた。こうした経過の中で、徳次は自分に人間的な愛情を持ってくれている人々がいることに深い喜びを覚えた。そして今まで無理をして体を酷使していたことも同時に反省した。
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社会 2009年05月23日 15時00分
石原知事、インフル問題「騒ぎすぎ」
東京都の石原慎太郎知事(76)は22日の定例会見で、新型インフルエンザをめぐる国内もろもろの反応について「ちょっと騒ぎすぎ」と繰り返し述べた。計4回述べた。 国内感染が拡大する中、メディアは連日これを詳報。薬局ではマスクの品薄状態が続いている。知事は、都独自の監視態勢を強化しているなどとしたうえで「ちょっとコレ騒ぎすぎじゃないの? 韓国ソウルに行きましたが、マスクしている人間ひとりもいなかったね。この中(記者団)にもいないじゃない。きみらが『大変だ、大変だ』って騒いでいる割に」と過熱報道をチクリとやった。 そもそも日本人は神経質とみられがちだ。それが念頭にあるせいか「正直っちゃあ正直。上に何(バカ?)がつくか知らねえけども、感染した患者を逐一報告している国って日本ぐらいじゃないのかね」とばっさり。 「オイルショックの時は買い付け騒ぎみたいになった。トイレットペーパーもなくなったしさ。ちょっと日本人ってこういうトレンドあるんじゃないかな。戦争なんかもね、適当なときにやめりゃあ、やめられたと思うんだけど、一億玉砕までいっちゃうんだな。その後に一晩明けたら総ざんげだよ。このインフルエンザの騒ぎを眺めていると、日本人独特のテンペラメント(気質)が出てて、なんか危ないなあって感じがしないでもないんですがね」 薬局でマスク争奪戦が繰り広げられる中、知事の「騒ぎすぎ」4発はクールダウンを呼ぶ“ワクチン”となるか。都内では同日深夜、新たに三鷹市の自由業男性(25)の感染を確認。八王子市の女子高生(16)と目黒区の女性ダンス教師(36)に続き3人目となった。(高)
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社会 2009年05月23日 15時00分
永田町血風録 自民細田幹事長が「股肱の臣」選びに躍起
国民の関心はくるくる変化する。政治についても、芸能人などの“人気投票”をするような軽い感覚で話題になっている「時の人」には、「ああ、いい人だ」というように高く評価する。 民主党の代表が小沢一郎から鳩山由紀夫に交代した直後がいい例だ。それまでは、自民党の麻生太郎が人気(支持率)では民主党の小沢をリードしていたのに、民主党が自民党を再逆転した。 民主党執行部は旧自民党、旧二院クラブ、旧社会党、旧民社党とまさに寄り合い所帯。傍(はた)から見ると野党が大同団結したように受け取れるが、国民の側からすれば実に「おもしろい党」との印象がある。 だから、政権を任せてもいいのではないかと考えたのだろう。あの厳(いか)めしい小沢よりも、当たりがソフトな鳩山の方が国民に受けているふしもあり、麻生自民を逆転してしまったのだろう。 「この時期は国民生活に最も重要な案件を国会で議論しなければいけない。こんな折に解散・総選挙をするべきではない」と自民党の幹事長・細田博之は言う。 それまで、どちらかといえば解散・総選挙を煽(あお)るようなコメントをしていたことから考えると、民主党の代表選以来、自民党VS民主党、麻生VS鳩山は攻守ところを変えてしまったと認めたとも取れる。 「自民党は、政策といえばバラまき状態の体質は少しも変わっていない。会期末でもいいから、やはり解散させて国民に信を問え、と訴えたい」 鳩山は口を開けば念仏のように、こう唱えている。 対照的に自民党の河村建夫官房長官が、「麻生内閣をしっかり支えていくためにも、今度の総選挙は負けるわけにはいかない」と言うのは、その立場から当然の発言だ。しかし、政府与党も野党も選挙モードに突入してはいるが、目下のところ、どちらからもまだ緊迫感は伝わってこない。 民主党は小沢を代表代行にして選挙に臨む。小沢という人物、自民党の旧田中派時代から選挙上手で通っていたから、民主党はその手腕に全幅の信頼を置いている。なぜなら、現在のねじれ国会は、その小沢が作り出したものだからだ。 「参院みたいな現象は絶対作ってはいけない。今からでも、(自民党の)人気回復策を考えないといけない」 細田幹事長は目くじらを立てるようにして党内を鼓舞するのは、民主党の選挙担当に小沢が就くことがはっきりしたからである。 その一方で、選挙のための股肱の臣(ここうのおみ=自分の手足のように頼りにできる者)を、1日も早く選び出そうとしている。遅くとも8月末までに総選挙は行われるはず。残された準備期間は、そう長くはないからだ。(文中敬称略)
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社会 2009年05月22日 15時00分
中央大教授刺殺事件で逮捕 教え子の素顔
東京都文京区の中央大理工学部キャンパスで今年1月、同大教授の高窪統(たかくぼ・はじめ)さん=当時(45)=が刺殺された事件で、警視庁富坂署捜査本部は21日、殺人の疑いで神奈川県平塚市に住む中央大理工学部卒業生でアルバイト店員の山本竜太容疑者(28)を逮捕。迷宮入りが囁かれた事件は、教え子の逮捕というショッキングな結末を迎えた。山本容疑者が大学卒業後、高窪さんに何らかの形で接触していたとみられることもあらたに判明。“狂気”を醸成した素顔が浮かび上がってきた。 山本容疑者は高窪教授の教え子で、卒論の指導も受けていた。具体的な師弟関係のトラブルは見つかっていないが、2004年3月に中央大学を卒業した後も、高窪さんと接触していたようだ。 捜査本部によると、高窪さんは昨年5月、研究室の教え子に「(山本容疑者が)自分を訪ねて来たら教えてほしい」と話していた。山本容疑者について当時の研究室仲間は「思い込みの激しいタイプだった」と話しているとされ、捜査本部は高窪さんが事前に接触してきた山本容疑者の動向に注意を払っていた可能性もあるとみている。 調べに対し山本容疑者は「高窪先生を刃物で何回も刺し、殺したことは間違いありません」と容疑を認める一方、「動機は話したくない」と供述。一方的に恨みを募らせ、殺害するに至った可能性が高まっている。 警視庁によると、山本容疑者は幼少期から大学まで東京都府中市で育った。大学卒業後は神奈川県平塚市でひとり暮らしを始め、食品製造会社の管理部門に勤務。その後、職を転々とし、いずれの会社も「職場になじめない」などの理由で最長4カ月以内に退職している。自己都合退職のほか解雇されたこともあり、転職を4回繰り返した。逮捕時には、近くのホームセンターで商品の搬入を担当していた。 逮捕容疑は1月14日午前、文京区春日1丁目の中央大理工学部1号館4階の男子トイレ内で、高窪さんの胸や背中などを刃物で多数回突き刺すなどして殺害した疑い。 捜査本部は、胸や背中などに60カ所を超える傷があったことなどから、恨みなどで強い殺意を持った犯行とみて、高窪さんにトラブルがなかったか捜査を進めていた。 高窪さんはテレビや携帯電話に使われる電子回路の専門家で、祖父、父も中大教授を務めたことがあり、妻も現役の大学准教授という学者一家だった。 中央大理工学部の田口東部長は「どうしてこうなったかよく調べて反省すべきは反省したい。(容疑者は)報道で初めて知った。彼がどういう人物か分からないのでコメントできない」としている。 捜査本部は22日、山本容疑者宅など関係先を家宅捜索。凶器の刃物の発見を急ぐとともに、犯行の詳しい状況や動機を調べる。 いったい二人のあいだに何があったのか。捜査の進展が待たれる。
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社会 2009年05月21日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(47)
徳次は利益の大半を、工場の機械化や備品の充実のために当てた。スイス製の自動シボリ器(スエージング・マシン)、チャーレン自動プレス3台、ベターマンの自動ターレットなどを据え付けた。顕微鏡や硬度計などの研究用具は国産では質的に不十分だったので、ハバードやアンドリウスなどの代理店を通じ外国製を購入していた。1台1200円もする万年筆模様入れ機械は2台入れた。下請けに出していたメッキ加工も、研究を重ねた結果、新工場では自社でできるようになった。金、銀、赤銅、ニッケルなどの各鍍金(メッキ)を自由に、しかも耐久性のあるものを作ることに成功していた。耐久性を持たせることが難しいとされている金や銀にも、10年間の保証を付けられるまでになった。 金や銀のメッキ製は主に国内に売れ、輸出はニッケル製がほとんどだった。価格は金7円、銀3円、ニッケル1円。ほかに時計付き、ライター付き、純14金製の高級品と、各種のシャープペンシルを考案し、販売した。そして当時としては非常に珍しい、コンベアによる流れ作業も導入した。 1年もしないうちに新工場では足りなくなり、大正9(1920)年に押上分工場を増設。さらに翌大正10年、本所林町から2、3キロ東に当たる亀戸に250坪の土地を購入した。第3工場建設用地だ。 亀戸の土地にあった長屋は従業員の住居に使用した。5軒あった長屋のうちの1軒に熊八一家を住ませ、熊八に管理人の役を与えた。 大正12(1923)年には従業員総数200人、工場は300坪に拡張、売上金は月額5万円になり、従業員の賞与は半期に10カ月分ずつ出した。 徳次たちの事業がこのように盛運にあったとき、金属製繰出鉛筆が各問屋から見向きもされなかった当初、唯一好意的に買い上げてくれた浅草橋の石井氏の店が破産したという知らせが入った。徳次は石井氏の当初の好意を恩義に感じ、売掛金130円ほどを棒引きにした。そして50円の見舞金を携えて石井氏が入院している蔵前の明治病院を訪ねた。