社会
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社会 2009年06月09日 15時00分
難民の新オアシス「ネットルーム」
「ネットカフェ難民」はもう古い。業界では一日単位でスペースとパソコンを利用できる「ネットルーム」への転換・拡大が始まっている。長期滞在を想定したこの新サービス、住環境に恵まれない利用客を中心に盛況だが、消防法などの適応が極めてあいまい。今後予想される業者の急増で、行政当局から規制強化が狙われそうだ。 首都圏でインターネットカフェ事業を展開するマンボーが、東京・大田区のJR蒲田駅前ビルに30室のネットルームをオープンしたのは、今年4月のことだ。 2畳ほどのスペースに机とイス、インターネットに接続するパソコンが設置されているのは、やや広めのネットカフェといった様相。部屋にもよるが、脚を伸ばして横になることができる。 完全個室で、室内には空調設備や洗面台まである。共同のトイレ、シャワールーム、コインランドリーなどが設置されている半面、ネットカフェでは当たり前の、飲み物の無料サービスはない。マンボーは「事務所としても使ってほしい」(広報担当者)と期待するが、「トイレに行くのが面倒だから室内の洗面台で済ます」というトンデモ客の声もある。 利用料は24時間2100円(1人用スタンダードの場合)で、1時間300円程度のネットカフェと比べると割安だ。 ネット完備の個室を貸すという発想は、ウィークリーマンション事業を展開する大手不動産会社、ツカサ都心開発が先駆だ。2007年スタートしたツカサのネットルームは2年で都内14カ所に拡大。ネットカフェ本家のマンボーは、ネットルームでは逆に「異業種」からの新規参入。本業が違うだけに両社にはそれぞれの特徴がある。ツカサの建物はマンション用物件の利用である半面、マンボーは、ネットカフェ同様テナントビルだ。 いずれも長期利用を想定。ツカサのある店舗では、「今いるお客さんが出て行かないと空かない」(窓口担当者)満室状態。マンボーも開店数日後には、大きなバッグを抱えた男性が数人、順番を待って受付カウンター脇の丸イスに腰掛けていた。 利用者の長期滞在は、そこが一時利用施設なのか旅館なのか、あるいは住居なのかという問題に結びつく。それによって、旅館業法や消防法などによる規制の内容に違いが生じるのだ。 宿泊施設には衛生管理体制が必要だし、不特定多数の客が寝泊りする旅館の場合、消火・防火設備の設置基準は、事務所やアパートなど集合住宅より厳しい。 24時間営業のネットカフェが旅館業法の規制対象になるのでないかとの議論は以前からあった。16人が犠牲になった大阪市の個室ビデオ店放火事件(08年10月)で、同市が市内同種施設に立ち入り調査したところ、宿泊施設と紛らわしい営業実態が認められるなど全体の半数近くで問題があった。営業形態の似たネットカフェも、全国的に同傾向と見られる。 ネットカフェで旅館業法抵触が問題となるのなら、長期滞在を想定するネットルームはより深刻だ。 埼玉県蕨市のネットカフェ「CYBER@CAFE(サイバー・アット・カフェ)」が、利用者の住民票を置くことができるとして各メディアに登場したのは昨年ごろのことだ。 マンボーも今年2月、ネットカフェ千葉中央店で同様のサービスを始めたが、千葉市が「居住環境とは認めがたい」とストップを掛け現在は棚上げ状態。蒲田のネットルームでもサービス内容に掲げてはいない。 住民票の扱いが自治体によってまちまちで、統一の図られていないことが裏付けられた。 派遣切りなどで住居を失った人だけでなく、短期上京する地方在住者などにとって、安く滞在できるネットルームは新たな「駆け込み寺」だ。ツカサ、マンボーの成功で、今後も参入が続出し、競争が激化するのは必至と考えられる。 行政の介入は必至で、規制強化により魅力的な現行の料金体系が見直され、難民の「オアシス」でなくなるかもしれない。
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社会 2009年06月09日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(61)
徳次は大阪の日本文具製造で技師長として半年間、働くことになっている。他にも独身者ばかり14人。12月に入ると、先に1人で大阪に向かった。 東京駅のホームには政治、登鯉子、彦太郎、静子、熊八、芳松夫妻、巻島夫妻、浅田洋次郎、後から大阪に来る従業員たち、東京の工場に残る従業員たち、皆が見送りに来た。誰もが押し黙って、重苦しい空気だ。徳次は東京を、ありし日の早川兄弟商会を、死んだ妻や子供のことを思った。 洋次郎は徳次に、大阪に着いたら心斎橋の石原時計店を訪ねるようにと、紹介状を渡してくれた。洋次郎の縁戚だった。大阪に着くとすぐ、石原時計店に石原久之助を訪ねた。石原は徳次を歓迎し、親身になって世話をしてくれた。徳次が従業員14人と住む阿倍野の借家を紹介したのも石原だ。 翌大正13(1924)年、正月が過ぎると後続の14人が到着し、賑やかな借家住まいが始まった。徳次は日本文具製造に譲ったシャープペンシルの事業が軌道に乗ったら、この大阪で金属関係の事業を起こすことを考えていた。それで休みの日には再起するための土地を探した。大阪で知り合った人々に、どこかいい土地があったら紹介してほしいと頼んであった。 後にシャープ発祥の地となる猿山村字田辺(現・大阪市阿倍野区西田辺)を紹介してくれたのも、そんな知人の1人だ。ある春の日に案内してもらうと、東に山々を望み、近くに学校が多い、のどかな田園風景の広がる田辺を気に入り、ここを再生の地にすることを決心した。坪当たり6銭、235坪の土地を10年契約で借りた。 工費2500円をかけ、27坪の工場兼事務所と10坪の住宅を建てた。8月末で日本文具製造を辞めた徳次は、日本文具製造で働く元従業員たちに「独立することになったが、私と一緒に来たい人は付いておいで。日本文具にとどまっても、私の作ったシャープペンシルなのだから、気兼ねして無理に私の方に来ることはない。私の所に来てもとても今と同じ給料は払えそうにないから、来るにしてもそれだけの覚悟をしてもらいたい」と言った。
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社会 2009年06月08日 15時00分
麻生首相“W杯便乗演説”で自殺点連発
麻生太郎首相(68)は7日、次期衆院選と東京都議選(7月12日投開票)をにらんで都内を精力的に回り、街頭演説に“W杯ネタ”を盛り込みながらこれを言い間違えるという“自殺点”を連発した。背景には、深夜のテレビ観戦による寝不足があったようだ。 午前中から、八王子市や立川市など西東京の都議選自民党候補を激励して回った首相は、サッカーW杯のアジア最終予選で日本がウズベキスタンに勝って出場を決めた話題で押しまくった。告示前の地方選で候補の事務所を回るのは異例中の異例。それでも首相は「呼んでもらううちが華だ。呼んでくれて本当にありがたい」などと述べ、W杯出場の喜びを分かち合おうとした。試合終了までテレビ観戦したといい、旬で明るいニュースに便乗したいという魂胆はミエミエだった。 しかし、慣れない夜更かしなどするものではなく、午後になると言い間違えを連発。武蔵野市のJR吉祥寺駅前での街頭演説はボロボロだった。 「4年前と違って日本には中田英寿みたいなスーパースターはいない。11人全員でやった。これが日本のサッカーだ」と称賛した首相は、景気低迷中の国内状況になぞらえて「みんなが今の不況を戦い抜こうと一致団結している。昨日のサッカーでも同じようなものを感じて大変心強く思う」と強引に結び付けた。 ところが、対戦相手のウズベキスタンを「カザフスタン」、サッカーを「野球」と言い間違える大チョンボ。民主党の菅直人代表代行の地元とあって、力が入りすぎてしまった。W杯出場決定の瞬間を見守った証拠を示すためか、あえてゲーム内容にも触れてみせた。 首相の必死さは懸命に伝わったものの、疲労と寝不足が“自殺点”を招いた格好。首相は都議選全候補を応援する方針というが、先が思いやれらるスタートとなった。
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社会 2009年06月08日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)その60 再起2 「再出発へ徳次が中山兄弟に提示した条件」
妻を葬って間もない11月初旬、徳次はまだ焼け野原のような東京の街から大阪に向かう夜汽車に乗った。焼けた建物の跡があちらこちらの灯の影に黒く横たわっているのを、新橋近くの車窓から見るともなく見ていた。この時の心境を後年、次のように述懐している。 “私は滅多と人生落莫(らくばく)などといった感情は持ち合わさないほうであり、そうしたものをむしろ軽蔑さえしていたのだったが、今の夜汽車の中の心の冷えだけは、ただ11月の夜気だけでないことを身に沁みて感じた”。 翌朝、大阪駅に着いた。逞(たくま)しい商工都市の動きは、いかにも新鮮でピチピチとしていた。頼もしい眺めだった。気持ちがいっぺんに引き締まるのを感じた。 日本文具製造で徳次は、社長の中山豊三と親会社の中山太陽堂社長・中山太一兄弟に、2万円の債務履行についての具体的条件を提示した。 (1)価格にして2万2千数百円する機械類を譲ること、(2)徳次個人名義のシャープペンシルの特許48種類を無償で使用させること、(3)日本文具製造は売掛金9000円余り(9081円15銭)を早川兄弟商会に支払うこと、(4)シャープペンシルの事業継続のために主な技術者を適当な条件で雇ってもらいたいこと、(5)技術指導のために徳次本人を6カ月、技師長として迎えること…などといった内容だった。 日本文具製造は即答は避けたものの、当日の午後には徳次と円満解決に至ったのだった。この結果を政治に電報で報告すると、その晩の夜行で再び東京にとって返した。 間もなく工場から機械が取り払われ、1台1台が荷造りされて大阪へ輸送されて行った。徳次と政治は、この作業を見ていることには耐えられなかった。 東京での事業は早川商事合名会社金属品製作所という名前で続けることにした。焼けた工場の跡地に小さいながらも新しく工場を建て、万年筆のクリップその他を製造販売し、政治が経営に当たることになった。(経済ジャーナリスト・清水石比古)
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社会 2009年06月06日 15時00分
永田町血風録 世襲議員たちには逆風の時代に
総務省自治行政局選挙部政治資金課によると、政治資金規正法には「相続」の定めがない。だから、仮に政治資金管理団体そのものを子息に継がせても相続税はかからない、ということになる。また、子息が政治家になり、そこへ資金を移す場合も政治団体間での寄付金は年間5千万円まで認められ、それにも税金はかからない。 今、話題になっている「世襲議員」は、地盤(後援会)、看板(知名度)、そしてカバン(資金)を引き継ぐ。とくに非課税であるカバンをそっくり引き継ぐことができるのは、なにより心強い選挙への援軍になる。 麻生内閣の閣僚17人のうち11人、衆院議員ではその3分の1は父や祖父からバトンタッチされた世襲議員である。それも一番多いのは言うまでもなく自民党である。 「父親の後援会があったことは、ものすごく得をしました。自分で後援会を作れば時間とカネがかかりますから」(自民党のある世襲議員)。地盤からカバンまで、ソックリ受け継いだほうが政治活動をするには、これほど楽なことはないわけだ。 民主党は次期衆院総選挙のマニフェスト(政権公約)に、世襲の制限を盛り込むことを決めた。自民党も若手有志で作る党改革に関する政策グループが4月、党内で世襲制度の旗振り役になっている菅義偉選対副委員長を招いて会合を開いた。約30人がこの会合に出席し、世襲とそうでない立場では選挙そのものが違うという意見が出た。次期衆院選からの立候補制限ということになれば、「職業選択の自由」を盾にした強硬反論もあったという。 しかし、自民党の改革実行本部は今回の衆院総選挙に世襲議員の制限は盛り込まず、その次の総選挙にそれを適用することを決めた。いつもどおりの迷走であり、既得権には弱腰だったことになる。 民主党が打ち出すマニフェストには世襲議員の禁止を盛り込むだけにとどまらず、同一選挙区での連続立候補の制限対象となる世襲の範囲を甥や姪などの「三親等内」にすることを掲げている。この民主党案に自民党は真っ向から対立することになった。公共事業が削減されている中で、これまでのような「利益誘導」は確実に減って、そのパイプが細る一方であるのも、自民党候補にはつらい。 世襲議員だからこそ可能だったであろう、長期的利権もこれまでのようには求められない時代になった。 そして、利権のおこぼれが期待できた有力な支援者も世襲議員を支えるメリットそのものが減ってきていることになる。 3世の首相・麻生と4世の民主党代表・鳩山由紀夫の対決は別の角度からも注目したい。 ご愛読ありがとうございました。(文中敬称略・おわり)
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社会 2009年06月06日 15時00分
石原知事五輪招致へテコ入れ
東京都議会は5日、石原慎太郎知事(76)の副知事人事案を賛成多数で可決。知事は2016年東京五輪招致の新たな担当副知事に佐藤広・産業労働局長(58)を選任した。任期途中の谷川健次(61)、山口一久(59)両副知事は退任した。 五輪開催地の決まるIOCコペンハーゲン総会まで4カ月を切っている。谷川氏は2年強にわたり五輪招致担当副知事としてけん引してきたため、庁内に動揺が走った。 知事はこの突発人事について、同日の定例会見で「ち密なネットワークが残念ながらできておらず、ここで人心一新しようと思った。谷川くんひとりの責任じゃない。全部の責任だけど、これから決戦に行くわけだからサッカーで言うとハーフタイム。ミッドフィールダーかフォワードか知らんけど、代えるもの代えて進もうと思っている」などと説明。招致PRの広報誌のデザインにダメ出ししたエピソードを打ち明けた。 「さすがにやっぱり森喜朗(元首相)だよ。古い友人だけど『こんなもん、だれが作った?』って。あの調査委員会の女性のモロッコの委員長(4月下旬に来日したムータワキル評価委員長)の大きなクローズアップ(写真)があるわけですよ。よほど若くて超美人ならわかるけど、あの人、元美人ではあるけどね、あれ見てもだれだか分からないんだよ。そんなもんがバーンと出てきてだれが興味を持ちますか?」 ポスターも5回修正させ、広告代理店最大手の電通・高嶋達佳社長にもアドバイスをもらって直したという。招致レース終盤に投入した新FWの決定力に注目だ。(高)
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社会 2009年06月06日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(59)
徳次が幼い頃から親しんだ本所や深川は、大震災で壊滅的な打撃を受けた。 しかし、亀戸の工場用地と長屋、その長屋を管理する熊八は無事だった。熊八の妹のひさと、その娘の糸、芳松夫妻、巻島夫妻も無事が確認できた。政治はじめ、登鯉子、彦次郎、静子、欣々の5人の兄と姉も助かっていた。ただ盲目の井上せいの行方だけが不明だった。 マグニチュード7.9、死者、行方不明者15万人、罹災者340万人以上と発表された関東大震災は、徳次からかけがえのない家族を奪った。しかし、その悲しみに打ちひしがれてばかりはいられなかった。 被災した従業員のうち、どこにも行くあてのない70人ほどが徳次の元に残っていた。手元には銀行預金が1万円、メッキ用の金の延べ板が価格にして4000円分ほど、他のこまごましたものを合計しても総計1万6、7000円しかなかった。 機械の一部は修理すれば使用可能な物もあり、それが2万2千数百円というところだった。 徳次は、政治と共に事業復興のための資金作りに奔走してみた。しかし、周囲の全てが打撃を受けていて、とても目途(めど)は立たない。現金は皆の食費などに消えていく一方で、大震災から1カ月が経つ頃には心細い状態になった。 そんな状況に追い打ちをかけるように、10月に入ると日本文具製造東京支社から特約解消の通知がくる。“エバー・レディ・シャープペンシル”の関東方面の販売を委託していた会社だ。特約の契約金1万円と、事業拡張資金として融資していた1万円の計2万円を即座に返済願いたいという内容だった。 早川兄弟商会の存亡にかかわる問題だ。徳次は考え抜いた結果、早川兄弟商会をいったん解散して、エバー・レディ・シャープペンシルの事業の一切を日本文具製造に譲渡することにした。
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社会 2009年06月05日 15時00分
抗うつ薬SSRI 凶悪事件との因果関係
SSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)という抗うつ薬が社会問題になっている。これまでの三環系の抗うつ薬と異なり、のどが渇くといった副作用がなく画期的な効果があるとされる。だが、元気になる患者がいる半面、自殺衝動にかられることが問題となっていた。さらに、ここへきて他人に危害を加える可能性があるという重大な副作用が判明したのだ。 事態は深刻だ。厚労省医薬食品局安全対策課は5月8日、SSRIに他人に対して攻撃的になる可能性があることを記した注意書を添付することを決めた。異例の措置を取ったのは「製薬会社から、この4年半の間にSSRIの服用で42人が他人に攻撃的になる副作用が認められたと製薬会社を通じて報告があったから」(厚労省安全対策課)という。 国内で100万人以上が服用しているSSRIが認可されたのは約10年前のことだ。日本で販売されているパキシル、ルボックス、デブロメール、ジェイゾロフトのほか、プロザック、ゾロフト、セレクサなどがある。 「87年に米国でプロザックの販売がスタートすると、ハッピードラッグと呼ばれ、性格改善薬としても使用されたいきさつがあります。世界で3500万人以上の人が服用しています」(精神科医) とりわけ、パニック障害の特効薬として広く使用されている。だが、安易に処方されるようになったため、弊害も目立つようになった。 「副作用の代表はコロンバイン事件です。米コロラド州のコロンバイン高校で高校生2人が銃を乱射し、生徒13人と教師1人を射殺した。犯人の1人はルボックスの常用者だったのです」(前出の精神科医) 日本でも全日空ハイジャック事件の西沢裕司被告が事件を起こす1年前からSSRIを服用し、犯行時は「躁(そう)と鬱(うつ)の混合状態」にあったという。さらに、比較的最近起こった重大事件の犯人もまたSSRIを服用していたことが明らかになったのだ。 「06年に川崎市多摩区の団地で起きた小学生投げ落とし事件では、子供好きの犯人がなぜそのような凶行に及んだのかが焦点となったが、SSRIの服用が判明した。そのほかにも、京都の塾講師による小学6年の女児殺害事件(05年)、愛知県の元暴力団員が立て籠もって県警『SAT(特殊急襲部隊)』の隊員を殺害した事件(07年)、ドン・キホーテ放火事件(04年)、福岡男児殺害事件(08年9月)でも被告がSSRIを服用していた」(医療ジャーナリスト) こうした刑事事件とSSRIの服用との因果関係はすべて明らかになったわけではない。厚労省安全対策課では「個々の事案を見ると、患者が起こした行動がその人がもともと持っていた気分変動によるものなのか、薬の影響なのか、きっちり結論付けることは難しい」と話す。 だが、重大事件の犯人がこうもこの抗うつ薬を常用していたとなると、偶然とも言い切れない。薬害を監視するNPO法人「医療ビジランスセンター」代表の浜六郎医師は言う。 「プラセボ(ニセ薬)とSSRIを使った臨床試験ではSSRIを服用した人が攻撃的になる頻度が高いことがはっきりする。小児の場合、プラセボの7倍にも達する。メーカーや厚労省はこの事実を握っているんですから、きちっと公表すべきです」 日本弁護士連合会では会員弁護士に対して、重大な刑事事件の被告がSSRIを服用していなかったかどうか、アンケート調査を実施している。100万人以上の人が心の平穏を託す薬だけに、早急にしかるべき結論を出してもらいたいものだ。◎SSRI 神経伝達物質の一つで、精神活動を支えるセロトニンを有効活用する薬。セロトニンは神経細胞の末端から放出されると、他の神経細胞に達して発火させる。それによって情報が伝わる。神経細胞間にはシナプスがあり、シナプスに放出されたセロトニンは分解され、最初の神経細胞に呼び戻される。SSRIはその再取り込みを阻害し、シナプスに蓄積させる。その結果、セロトニン神経を異常に興奮させるとされる。
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社会 2009年06月05日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(58)
2週間ほどしてから徳次は一人、油堀に行った。すでに堀に震災の名残りはなかった。ただ焼け残りの船板が1、2片、粘った水面を漂っていた。持参した花を黒い水面に投げた。そして、しばらく目をつぶってからその場を離れた。文子は全身の火傷の他に汚水を飲んだため痢病(りびょう)を起こし、衰弱がひどかった。何より2人の幼子を同時に亡くした精神的痛手が大きすぎた。彼女は立ち直ることができないまま、10月26日、30歳の短い生涯を終えた。 朝鮮半島から来て徳次の工場で働いていた青年2人のうち、1人は行方不明になってしまったが、もう1人の李青年は亀戸の長屋に避難していた。 関東大震災の直後、人々が平常心を失っているところに「朝鮮人が暴動を企てている」、あるいは「井戸に毒を入れた」といった根拠のない噂が流れた。これが被災者の間に大きな不安を呼び、町の各所では自警団が組織されて昼夜の警戒に当たり、朝鮮人と見ると殺気立つという事態を招いたことがある。 亀戸の長屋にも朝鮮人を匿(かくま)えば、匿った者もただではおかないといった話が聞こえてきた。李がいるので、他の従業員の中には動揺する者がかなりいた。徳次は全従業員に李がいることを口外しないよう、固く言い渡した。そして李を自分の家の押し入れに隠し、食事は毎回、徳次が運んだ。押し入れに入ると李は中から徳次に手を合わせていた。しばらくして風評が納まり、もう大丈夫と思えるようになってから李に自転車を与え、東京から逃れさせた。 それから十数年後、徳次はシャープ・ラジオの新京支店を開いた。新京は当時の満州国の首都だ。店頭には徳次の写真が掲げてあった。李は新京の、シャープ・ラジオの支店がある町に住んでいた。そこで懐かしい徳次の写真を見かけ、涙が止まらなかった。何としても会ってあの時の礼を言いたいと、支店の従業員に話しかけた。そして昭和15年、2人は再会を果たすことになった。 勉強家だった李は、徳次の元を去った後、苦学して弁護士になっていた。
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社会 2009年06月04日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(57)
従業員に背負われて来た文子は、徳次の側に下されると、そのまま崩れるように倒れた。避難する際に分け与えておいた布団を持って来てくれた従業員がいて、その布団の上に伏せっていた。 文子は「すみません」と幽(かす)かに言うと、そのまま泣き入ってしまった。徳次は横になったまま、子供達がもう帰らないことを思い初めて涙が流れた。 文子は顔、手、頭と一面の火傷の上に、逃げる際に跳び込んだ堀割の黒く臭い泥水を大量に飲んでおり、容態はひどく悪かった。徳次の妻子が逃げまどったのは油堀という堀割で、岩崎別邸から250メートルほど南にあった。現在は堀はなく、江東区佐賀1丁目と2丁目の境、都道475号になっている。 9月2日の夜は猛烈な雨が降ったが、徳次達は仮小屋のお陰で濡れずに済んだ。 翌3日になると亀戸の長屋が火災を逃れたことがわかったので、徳次、文子、川本らは人に背負われて移動した。途中は何カ所も橋が焼け落ちており、ずいぶん迂回(うかい)して行った。 徳次は目の他に咽喉(のど)もやられていて、当初は重湯しか受け付けなかったが、幸い、目も咽喉も思ったより軽く3、4日で回復した。目が回復すると、亀戸から20人ほどの従業員を連れて林町の工場の焼け跡に行き、現場に仮小屋を建てた。2日の夜の雨で機械類に錆(さび)が浮いていたので、油を引き錆止めの手入れをした。そして残っていた金物や金庫内の物を大八車で亀戸に持ち帰った。 日が経つにつれ、従業員が集まって来た。ほとんどが罹災者だったので、皆、長屋に入れ、合宿のようになった。 一時は70名ほどがおり食糧が大変で、米だけでも1日1俵は必要だった。 元気な者が自転車で千葉市辺りまで買い出しに行ったりした。政治も小石川台町の自宅から残暑の中、重い荷物を背負って亀戸まで連日、生活必需品を運んだ。