朝鮮半島から来て徳次の工場で働いていた青年2人のうち、1人は行方不明になってしまったが、もう1人の李青年は亀戸の長屋に避難していた。
関東大震災の直後、人々が平常心を失っているところに「朝鮮人が暴動を企てている」、あるいは「井戸に毒を入れた」といった根拠のない噂が流れた。これが被災者の間に大きな不安を呼び、町の各所では自警団が組織されて昼夜の警戒に当たり、朝鮮人と見ると殺気立つという事態を招いたことがある。
亀戸の長屋にも朝鮮人を匿(かくま)えば、匿った者もただではおかないといった話が聞こえてきた。李がいるので、他の従業員の中には動揺する者がかなりいた。徳次は全従業員に李がいることを口外しないよう、固く言い渡した。そして李を自分の家の押し入れに隠し、食事は毎回、徳次が運んだ。押し入れに入ると李は中から徳次に手を合わせていた。しばらくして風評が納まり、もう大丈夫と思えるようになってから李に自転車を与え、東京から逃れさせた。
それから十数年後、徳次はシャープ・ラジオの新京支店を開いた。新京は当時の満州国の首都だ。店頭には徳次の写真が掲げてあった。李は新京の、シャープ・ラジオの支店がある町に住んでいた。そこで懐かしい徳次の写真を見かけ、涙が止まらなかった。何としても会ってあの時の礼を言いたいと、支店の従業員に話しかけた。そして昭和15年、2人は再会を果たすことになった。
勉強家だった李は、徳次の元を去った後、苦学して弁護士になっていた。