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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)その60 再起2 「再出発へ徳次が中山兄弟に提示した条件」

 妻を葬って間もない11月初旬、徳次はまだ焼け野原のような東京の街から大阪に向かう夜汽車に乗った。焼けた建物の跡があちらこちらの灯の影に黒く横たわっているのを、新橋近くの車窓から見るともなく見ていた。この時の心境を後年、次のように述懐している。

 “私は滅多と人生落莫(らくばく)などといった感情は持ち合わさないほうであり、そうしたものをむしろ軽蔑さえしていたのだったが、今の夜汽車の中の心の冷えだけは、ただ11月の夜気だけでないことを身に沁みて感じた”。
 翌朝、大阪駅に着いた。逞(たくま)しい商工都市の動きは、いかにも新鮮でピチピチとしていた。頼もしい眺めだった。気持ちがいっぺんに引き締まるのを感じた。

 日本文具製造で徳次は、社長の中山豊三と親会社の中山太陽堂社長・中山太一兄弟に、2万円の債務履行についての具体的条件を提示した。
 (1)価格にして2万2千数百円する機械類を譲ること、(2)徳次個人名義のシャープペンシルの特許48種類を無償で使用させること、(3)日本文具製造は売掛金9000円余り(9081円15銭)を早川兄弟商会に支払うこと、(4)シャープペンシルの事業継続のために主な技術者を適当な条件で雇ってもらいたいこと、(5)技術指導のために徳次本人を6カ月、技師長として迎えること…などといった内容だった。
 日本文具製造は即答は避けたものの、当日の午後には徳次と円満解決に至ったのだった。この結果を政治に電報で報告すると、その晩の夜行で再び東京にとって返した。
 間もなく工場から機械が取り払われ、1台1台が荷造りされて大阪へ輸送されて行った。徳次と政治は、この作業を見ていることには耐えられなかった。
 東京での事業は早川商事合名会社金属品製作所という名前で続けることにした。焼けた工場の跡地に小さいながらも新しく工場を建て、万年筆のクリップその他を製造販売し、政治が経営に当たることになった。
(経済ジャーナリスト・清水石比古)

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