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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(57)

 従業員に背負われて来た文子は、徳次の側に下されると、そのまま崩れるように倒れた。避難する際に分け与えておいた布団を持って来てくれた従業員がいて、その布団の上に伏せっていた。

 文子は「すみません」と幽(かす)かに言うと、そのまま泣き入ってしまった。徳次は横になったまま、子供達がもう帰らないことを思い初めて涙が流れた。
 文子は顔、手、頭と一面の火傷の上に、逃げる際に跳び込んだ堀割の黒く臭い泥水を大量に飲んでおり、容態はひどく悪かった。徳次の妻子が逃げまどったのは油堀という堀割で、岩崎別邸から250メートルほど南にあった。現在は堀はなく、江東区佐賀1丁目と2丁目の境、都道475号になっている。

 9月2日の夜は猛烈な雨が降ったが、徳次達は仮小屋のお陰で濡れずに済んだ。
 翌3日になると亀戸の長屋が火災を逃れたことがわかったので、徳次、文子、川本らは人に背負われて移動した。途中は何カ所も橋が焼け落ちており、ずいぶん迂回(うかい)して行った。
 徳次は目の他に咽喉(のど)もやられていて、当初は重湯しか受け付けなかったが、幸い、目も咽喉も思ったより軽く3、4日で回復した。目が回復すると、亀戸から20人ほどの従業員を連れて林町の工場の焼け跡に行き、現場に仮小屋を建てた。2日の夜の雨で機械類に錆(さび)が浮いていたので、油を引き錆止めの手入れをした。そして残っていた金物や金庫内の物を大八車で亀戸に持ち帰った。
 日が経つにつれ、従業員が集まって来た。ほとんどが罹災者だったので、皆、長屋に入れ、合宿のようになった。
 一時は70名ほどがおり食糧が大変で、米だけでも1日1俵は必要だった。
 元気な者が自転車で千葉市辺りまで買い出しに行ったりした。政治も小石川台町の自宅から残暑の中、重い荷物を背負って亀戸まで連日、生活必需品を運んだ。

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