文子は「すみません」と幽(かす)かに言うと、そのまま泣き入ってしまった。徳次は横になったまま、子供達がもう帰らないことを思い初めて涙が流れた。
文子は顔、手、頭と一面の火傷の上に、逃げる際に跳び込んだ堀割の黒く臭い泥水を大量に飲んでおり、容態はひどく悪かった。徳次の妻子が逃げまどったのは油堀という堀割で、岩崎別邸から250メートルほど南にあった。現在は堀はなく、江東区佐賀1丁目と2丁目の境、都道475号になっている。
9月2日の夜は猛烈な雨が降ったが、徳次達は仮小屋のお陰で濡れずに済んだ。
翌3日になると亀戸の長屋が火災を逃れたことがわかったので、徳次、文子、川本らは人に背負われて移動した。途中は何カ所も橋が焼け落ちており、ずいぶん迂回(うかい)して行った。
徳次は目の他に咽喉(のど)もやられていて、当初は重湯しか受け付けなかったが、幸い、目も咽喉も思ったより軽く3、4日で回復した。目が回復すると、亀戸から20人ほどの従業員を連れて林町の工場の焼け跡に行き、現場に仮小屋を建てた。2日の夜の雨で機械類に錆(さび)が浮いていたので、油を引き錆止めの手入れをした。そして残っていた金物や金庫内の物を大八車で亀戸に持ち帰った。
日が経つにつれ、従業員が集まって来た。ほとんどが罹災者だったので、皆、長屋に入れ、合宿のようになった。
一時は70名ほどがおり食糧が大変で、米だけでも1日1俵は必要だった。
元気な者が自転車で千葉市辺りまで買い出しに行ったりした。政治も小石川台町の自宅から残暑の中、重い荷物を背負って亀戸まで連日、生活必需品を運んだ。