社会
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社会 2009年06月04日 15時00分
永田町血風録 政権交代へ寄り合い所帯の民主が一枚岩に
自民党には時代の空気を読めずに(読めない?)、「まあ、オレの言うことを聞け」とばかりに公の場所で喋りまくっている領袖がいる。 森善朗がそれだ。ちなみに元首相でありながら、「衆院の定数を300にしろ、なんて簡単に言うけれど、比例代表をなくすとなれば与党の公明党は言うに及ばず、野党の共産党あたりは死に物狂いで反対してくる」と。 また、世襲制度についても「選ぶのは有権者であって、立候補するのは息子でも孫でもいいわけだ。それを制限するということ自体がおかしい」とも言い放っている。 森の“ご高説”は納得できる場合もあるが、政治の世界でも新しい風が求められている。世襲問題に関してはピント外れ。国民感情を逆なでしかねず、ひいては党益に反するのではないか。 国会議員の今夏の期末手当(ボーナス)を2割削減する歳費法改正案を、議員の心中では「何でそんなにカットするのか」と考えている者もいるかもしれない。これに反対すれば、そう遠くはない総選挙で国民から手痛いしっぺ返しを受ける恐れがある。だからやむなく、「全会一致」で改正案を国会で通した。 自民党の領袖の多くは、自らの派閥が第一、国民のことなど全く考えてはいない。その姿勢を変えようとしないことは、呆れるばかりなのだ。 このところ、自派の会合で「選挙は、いついつだ」と、あたかも自分が決めるかのような発言をする領袖もいる。マスコミは、それをおもしろおかしく取り上げるから、「どうだ、オレの言うことは影響力があるだろう」と増長させることになる。 政治資金規正法違反で起訴されていた、民主党の小沢一郎前代表の資金管理団体「陸山会」の公設第一秘書、大久保隆規被告がこのほど東京拘置所から約3カ月ぶりに保釈された。ユリの花束を抱えた拘置所を出てきた大久保の姿は、何か手柄を立てた後のように堂々としていた。 「小沢もこれで思い切り代表代行、選挙担当として動くことができる」 民主党のある幹部は胸を撫で下ろすかのように、そう言った。公判がスタートするのは選挙後との観測が流れているせいもあってか、民主党執行部の政権交代へのテンションは、一気にヒートアップしている。 勢いついでに、核実験をした北朝鮮への制裁はもっと手厳しくやるべき、との声まで党内から出てきている。 思想信条を異にする、同床異夢の者が集まる寄り合い所帯の政党が1つにまとまろうとしているのは、選挙があるから。それも勝ち戦(いくさ)が予想される。いまは、イケイケなのだ。 自民党の領袖たちの無責任な発言とは対照的に、総選挙を目標に一枚岩になりつつある民主党なのである。(文中敬称略)
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社会 2009年06月03日 15時00分
後継三男・正雲氏の意外な素顔
北朝鮮の金正日総書記の後継に三男・正雲氏(25)が決まったとの韓国メディアの報道が相次ぐ中、けさ3日の朝日新聞は朝鮮労働党幹部が中国共産党幹部にこれを伝達したとする北京発の記事を1面トップで報じた。日増しに確定ムードは濃厚になってきており、後継候補3子息で最もナゾめいている正雲氏の素顔があらためてクローズアップされそうだ。 顔写真はほとんど出ていない。日本テレビ系報道番組が小学生時代とみられる写真を公開したほか、けさの朝日は「正雲氏とみられる写真」を掲げて抗議デモに参加するソウル市内の男性をとらえたAFP時事配信の写真を掲載した程度。東京ディズニーランド観光目的で隠密来日したとされる異母兄弟の長男・正男(38)氏とは対照的だ。 母親の故高英姫氏は金総書記の3番目の夫人で、二男・正哲氏(27)は実兄。これまでの報道によると、スイス・ベルンのインターナショナルスクールに留学していたころは偽名を使い、級友と山岳スキーやバスケットボールを楽しむ反面、性格はシャイだったとされる。
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社会 2009年06月03日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(56)
道は火の塊(かたまり)だったので、市電の鉄骨の間を駆け抜けた。どこを通っても余熱で燃えるような熱さだ。徳次の足の火傷はさらに増し、ずきんずきんと痛むのだった。それでも岩崎別邸に着くことができた。 広大な岩崎別邸は命からがら逃げ延びた避難者達でごった返していた。邸内には建築物らしい物はほとんど残っていない。樹木がたくさん焼けていた。大声で「早川の者は誰かいないか!」と呼びながら歩いているうちに、すっかり夜が明けていることに気が付いた。 両目が痛むので右腕で押さえて10分ほど叫び歩いていると、「早川の旦那ですか」と手をつかんでくれる者があった。工場に出入りの者だった。 「皆さんが、あちらにおられますよ」と手を引いて、工場の者が3、4人かたまって座っているところに連れて行ってくれた。お互いに狂喜したが、徳次の妻子の安否を知る者はいなかった。 岩崎別邸に避難していた従業員達は相談して、夜露を凌(しの)ぐために仮小屋を作った。焼けたトタン板や付近の墓地から持ってきた墓標、塔婆(とうば)などでできた仮小屋の上に誰かが作った「早川徳次」という2本の幟(のぼり)の1本を立てた。もう1本は手に持って交代で邸内を回り、家族や他の従業員を探した。 2時間ほどして、徳次よりもひどく目を痛めた様子の川本が手を引かれて連れて来られた。川本は「ご主人、すみません」と言うと大声で泣き出した。そして徳次の妻と2人の子供は死んだと知らせた。川本も自分の妻子を失っていた。やがて仮小屋に従業員が集まってきた。 夕方になって「奥さんが来ましたヨー」と誰かが知らせた。死んだと思ったが助かったのだ。しかし「幽霊のようになって来ました」と言うのだ。徳次は目が開けられなかったので見ていないが、文子は頭髪が焼け、顔面には大きな傷が痣(あざ)のようになっていた。
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社会 2009年06月02日 15時00分
故内外タイムス新聞葬 田代まさし 本紙連載で完全復活へ
芸能界へ再起をかける田代まさし氏(52)が1日、「内外タイムス新聞葬」に出席。アントニオ猪木氏による愛ある“闘魂注入”を受けた。田代氏は「小学生のときからのファン」という猪木氏との対面に感激しきり。心の師匠の喝ビンタに「本当に目が覚めた」と、復帰への活力を得た様子だった。勢いに乗った田代氏は本紙新連載「田代まさしの新メニュー始めました!」の開始を約束した。 田代氏は午後6時に会場入り。超満員の客席をチラと見て息を飲んだ。「人数もすごいけど、今日のイベント(新聞葬)って割と重苦しい雰囲気じゃない? だから正直言って、裁判とか昔の嫌なことを思い出しちゃうんだよねえ」と浮かない顔だ。 この日の田代氏は、かつてより少し太った印象はあるものの、着崩した喪服姿からはちょい悪オヤジのカッコ良さも漂う。もちろん、一時期報道された「ろれつが回らない」などということはみじんも感じさせず、話してみればすぐに、頭の回転が絶好調時のそれに戻っているのが分かった。 しかし、見た目とは裏腹に、田代氏の心理状態は緊張の極限にある様子だ。無理もない。自ら「新聞葬」を行うほど追い詰められている本紙だが、芸能界における田代氏の立場も似たようなもの。この日のイベントで「再生」をはかりたい思いもまた本紙と同様。体を震わせるほど力むのも当然なのだ。 そんな田代氏をひといきにほぐしてくれたのが、ほかならぬアントニオ猪木氏だった。 控え室に入るや真っ先に猪木氏に歩み寄り、深々と一礼した田代氏。その肩をガッチリと抱いた猪木氏は「よろしくな」とひと言、力強く放った。 「オレさあ、小学生のときからのファンなんだよ。芸能界に入ると聞かれるでしょ。『会いたい人は誰ですか?』って。オレ『猪木さんです』って即答したもん。で、本当に会えたときにオレの考えた新しい技『肺つぶし』って言うんだけど、それを教えて『試合で使ってください』って言ったのね。まあ、鼻で笑われたけどさあ」と、猪木氏との思い出をマシンガントークで語り始める田代氏。次第に芸能界に入ったばかりのころの前向きな気持ちを思い出しつつあるのか、その顔には生気が戻ってきていた。 いざ、イベントが始まり、田代氏が壇上に立つと、待っていたのは猪木氏によるアドリブの嵐。必死についていく田代氏には、間違いなくバラエティー番組で鳴らしたころの勘が戻っていた。 「二度と間違いを起こすなよ! いくぞ!」 「はい!」 師弟愛すら感じさせた“闘魂注入”を振り返って、田代氏は言う。 「ずっと憧れてたビンタだけど、あんなに痛いものだとは思わなかった。鼻血が出るかと思ったよ。本当に目が覚めた。これでやっと(芸能界復帰へ)新しい一歩が踏み出せる気がする」 晴れ晴れとした笑顔を見せた田代氏は、本紙に新連載開始を約束。「オレなりにアンテナに引っかかったものを、なんでもいいから書いてみたい」と意気込みを見せた。 本紙とともに一度死に、猪木氏のビンタによって“覚醒”した田代氏。その力量は本紙芸能面での新連載「田代まさしの新メニュー始めました!」で見てほしい。◎著書にテレビ…芸能活動本格化 昨年6月26日の出所以来、段階的に芸能活動を再開させてきた田代氏だが、本人いわく「まだまだ再開なんてとんでもない。リハビリの段階」とのこと。しかし、ここへきて活動は本格化している。 先月14日には自著「審判」(創出版)を刊行。出版記念イベントとして5日午後7時から「ブックファースト新宿店」でトークライブ&サイン会、14日午後2時から「有隣堂ヨドバシAKIBA店」で撮影&サイン会が行われる予定。 また、復帰後初となるレギュラー番組も決定した。 CS放送モンド21では新番組「田代まさしのいらっしゃいマーシー」を7月2日から放映。田代氏をホストに据えた隔週1回の対談番組で、第1回のゲストは誰もが知る元IT企業社長。田代氏と同じく「時代の寵児」として認知されながら、一転、地獄も味わったあの男だ。田代氏との対談で何が生まれるのか、まったく想像がつかないところが非常に楽しみな番組となっている。 昨日の「内外タイムス新聞葬」終了後、田代氏は言った。 「オレは、芸能界復帰とかって実はあんまり意識してないんだ。オレを求めてくれるところに出ていくだけだよ。そして一歩一歩進んでいくしかないじゃない」 転落人生だけで終わらない…心の底でそう決意した田代氏の静かなる歩み出しに注目だ。◎田代まさし氏弔辞全文 内外タイムスさん、今日あなたとお別れしなくてはならないと聞いて、私自身、万感の思いがこみ上げています。 私が貴紙と密接にかかわりを持つようになったのはおよそ9年前、不肖ながら私が盗撮事件を起こしてしまったときのことです。 当時、一番鋭く、また一番手ひどく私の事件を報じてくれたのが内外タイムスさんだったのです。私は貴紙の報道を毎夜読んで猛省し、一方で募る悔しさに耐えたものです。 ところが翌年、私が芸能活動を再開した折には、いの一番に連載の仕事を振ってくださいました。 悪いことをしたときには鬼の顔で糾弾し、再起となれば一転、神のみこころで手を差し伸べる。ああ、これこそ「世間」の偽らざる姿なのだなあ、と思ったものでした。 その内外タイムスさんが、庶民の代弁者だったはずの内外タイムスさんが、今回、60周年を機に長い長い歴史に幕を閉じる…。…信じられない思いでいっぱいです。 未曾有の活字不況の中、内外タイムスさんもここ数年、経営陣の相次ぐ交代や紙面内容の劇的な変更など、迷走を続けていたとうかがっています。…地獄だったのでしょう。 しかし! ここで負けてしまっていいのでしょうか。復活の道は本当にもうひとつもないのでしょうか。 恥ずかしながら、同じようにここ数年、辛酸を舐めてきた私、田代まさしとしては残念で、無念でなりません。これからまた、内外タイムスさんとともに、小さくとも一歩ずつ復活の道を歩んでいくつもりでした…。 ただ私ごときの存在では、時世の流れに逆らうことなどできようはずもありません。悲しいけれど、お別れを言うときがきたようです。 ありがとう内外タイムス! さようなら内外タイムス!
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社会 2009年06月02日 15時00分
故内外タイムス新聞葬 本紙イベントを朝刊スポーツ各紙が報道
本紙が東京・有明で1日に開催した創刊60年イベント「故内外タイムス新聞葬」について、きょう2日発行の朝刊スポーツ各紙がそれぞれユニークな記事を掲載した。 スポーツ報知は「田代まさしに猪木がビンタ」の見出しで、アントニオ猪木氏が田代氏の頬を張った瞬間の写真を掲載。スポーツニッポンは「内外タイムス新聞葬ダー!」として、来場者がみな喪服姿という異色イベントの詳細を報じた。東京中日スポーツは「内外タイムスに闘魂ビンタ」とし、本紙・重森社長のビンタシーンを載せた。 ほかにも民放テレビ局やCS放送局、週刊誌、写真誌など多くのメディアが取材しており、イベントの注目度の高さをうかがわせた。
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社会 2009年06月02日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(55)
ついに水中にいることが耐えられなくなって、徳次は橋の上に這い上がってみた。まるで熱せられた鉄板のように熱く、ワイシャツがすぐに乾いた。たまらずまた、水中に戻る。しばらくして、また這い上がる。これを繰り返しているうちに辺りが白みかけてきた。 一晩中、風が吹いた。風は小砂混じりの灰を顔に吹き付けた。時々、どこか遠くのほうでドーンという爆発音がした。 次第に明るくなり、徳次は改めて橋の上に這い上がった。立ち上がって辺りを見回す。生きているのは自分一人のようだった。橋の上はまだ熱かったが、中ほどまで歩いて行った。あれほどたくさんあって道を塞(ふさ)いでいた荷物は、全て焼け失せていた。乾いた熱砂が吹き付ける。目が痛んで開けていられず、息が止まりそうになった。 徳次は再度身を伏せて、そばの死体に顔を押しつけるようにして熱砂を避けた。そうしてしばらくじっとしている間に、どの死体も下を向いていることに気が付いた。 誰かに「水はいらないか」と言われた。顔を上げることができず、手だけを声のほうに伸ばすと、ヤカンのようなものを握らせてくれた。それを、ひと息に口の中に空けた。これが蘇生の水となって徳次はまさに、生き返った。 生きた人間が見当たらなかった橋の上で、誰が水を恵んでくれたか、両目をやられて視力が鈍っていたため、ついにわかることはなかった。 徳次は再び橋の上に立ちあがった。ワイシャツとパンツしか身に付けていなかった。顔と手足は火傷がひどく、他にも傷を負っていた。 目は痛みでろくに開けることができない。しかし、わずかに岩崎別邸の黒い森の影が見えた。徳次はいきなり走り出した。 150メートルほどの距離だった。途中は灰と燃え残りが山になっており、路面に市電の車両が3つ、4つ、鉄骨だけになってひしゃげていた。
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社会 2009年06月01日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(54)
潮が満ちて来たらしく、徳次の乗った伝馬船は橋の下から、岩出屋の油倉庫が並ぶ岸のほうに近づいて行った。油倉庫は炎に包まれ、焼け落ちる寸前のようだった。 伝馬船は今や倉庫と至近距離になっている。このままでは油倉庫は爆発する、そう思って冬用外套、モーニング、帽子を脱ぎ捨ててワイシャツだけになり、水中に跳び込んだ。3、4メートルやっと泳げる程度だったが必死にもがいて、橋下の台座に辿り着いた。その直後、大音響とともに油倉庫が焼け落ちた。 火の海が渦を巻いている。その中からいくつも火柱が立った。熱で真空になっているところへ空気が動いたために起きた突風が人、トタン板、家と、あらゆる物を吹き飛ばした。いったん上に上がってから方向を変え、横に向かって飛んで行くのだった。 先程(さきほど)まで乗っていた伝馬船は影も形もない。徳次は履いていた靴下の片方を脱いで鼻孔と口を塞(ふさ)ぎ、吹き付ける熱い煙を防いだ。台石にしがみつき、水面にちょっと顔を出して水中に頭を入れたままでいた。水面すれすれのところは煙の影響が比較的少なく、何とか呼吸ができた。タライが流れて来たので頭から被ったが、しばらくするとそのタライが燃えだしたので捨てた。 日が暮れかけてきた。一時は水面に人の首ばかり見えたが、今は数えるほどしか残っていない。死体がいくつも漂い徳次の体に触れるのだった。 顔や手足を火傷していることに気が付いた。気が付いた時にはヒリヒリしたが、だんだん痛みが激しくなっていった。 日はとっぷりと暮れていた。日が暮れるにつれて、両岸の火の勢いもようやく弱まってきていた。吹き荒れていた熱風も少し衰え、川の水も湯のようだったのが徐々に冷めてくるのが感じられた。 しかし、上げ潮で水嵩(みずかさ)が増し、水中で立っていられなくなったうえに腹が痛み出した。そこで自分を“落ちつけ、元気を出せ”と励ますように、昨日練習した謡曲の船弁慶を謡(うた)ってみた。声は震えていたが、出来はよかった。
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社会 2009年05月30日 15時00分
トヨタ富士F1撤退のウラにゴーンの影
トヨタ自動車が子会社「富士スピードウェイ」(静岡県小山町)での「F1日本グランプリ(GP)」開催から撤退を検討していることが29日分かり、関東のF1ファンにショックが広がった。厳しい経営事情の中、赤字レースを“損切り”せざるを得ない実情があるのは確かだ。しかし、そのウラには、あの日産のカルロス・ゴーン社長の影がちらついているという。 F1日本GPは現在、トヨタ系の富士とホンダ系「鈴鹿サーキット」(三重県鈴鹿市)での隔年開催だ。今年は10月に鈴鹿で行われるため、来年は富士の予定だが、撤退が決まった場合は鈴鹿での開催になる可能性がある。関東以北在住のF1ファンは、また以前のように鈴鹿まで遠出して観戦しなければならなくなる。 トヨタはF1レース自体への参戦は続ける方針だが、なぜ「富士」が“犠牲”になったのか。 日産関係者は「トヨタの豊田章男次期社長がうちのゴーン(社長)をめちゃくちゃ意識しているんですよ。ゴーン(社長)が『フェアレディーZ』を復活させたり、国産スーパーカー『GT-R』開発でカーマニアを狂喜させた手腕を真似て、スーパーカー開発に巨額の資金をぶちこむつもりらしい。それで富士にカネが回らなくなった、ということでしょう(笑)」と話す。 つまり、ライバルはホンダではなく日産ということ。F1開催をホンダに譲ってでも、ゴーン氏には負けたくないとライバル心を燃やしているという。 実際、章男氏はバリバリのレーサーだ。4月下旬にドイツで開催された国際自動車レース「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」では、章男氏自らドライバーとして参戦し、170台中の87位で完走。「悔しさをばねに今後もがんばりたい」などと述べ、トヨタチームとして挑戦を続ける意欲を示した。 実は、このとき駆ったマシンが注目を集めた。超高性能スポーツカー「レクサスLF―A」の試作車で、ポルシェやフェラーリなど欧州メーカーの上位車種に対抗できる和製スーパーカーの期待がかかっているという。 富士スピードウェイはトヨタが2000年に買収。約200億円を投じて施設を改修した上でF1GPの開催権を獲得し、07年にようやく実施した経緯がある。
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社会 2009年05月30日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(53)
仕方なく邪魔になる洋傘と布団を捨てた。頭上の橋の様子を見ると、橋の上の荷物を焼いて石造りの橋には火の帯が流れるように広がっていた。 高橋近くの河岸には行徳に通う船の発着所があり、その対岸には岩出屋の油倉庫が並び建っていた。行徳通いの伝馬船が5艘、やはり高橋の下に避難していた。 徳次達がいる橋脚がいっぱいになると、その5艘の伝馬船めがけて人々が飛び降りた。船頭達は女子供だけを乗せた。やがて両岸をすっかり火が覆うと、船中にも火が迫った。船頭達は乗せた女子供を置き去りに水中に飛び込んでしまった。置き去りにされた者は船が焼けてくると、水中に跳び込み溺れたり、残って船とともに焼死するという無残なことになった。焼けた船は水上部分のない、筏(いかだ)のような姿で、船底のみが漂っていた。 徳次が橋脚に逃げ込んだのが午後4時頃。それから約1時間後には猛烈な火柱が横に尾を引いて、橋の下を抜ける形で岸から岸へ走り始めた。橋脚にいた者も伝馬船の者も、ほとんどが水中に跳び込み熱さを避けようとした。 岸にいた群衆も一斉に水中に跳び込んだ。そして、橋の台石や伝馬船の端、岸などに縋(すが)って首だけ水上に出している。それらの人々が念仏やお題目を唱える。徳次はそれらの光景を何とも言えない悲壮な思いで見ていた。 うろたえまいとして熱いのを我慢しながら、じっと気を落ち着けさせるように動かずにいた。しかし橋脚が次第に熱くなって、徳次も遂に伝馬船の残骸に跳び移った。そして船底に身を伏せ、底に溜まっていた水に身を浸らせ、両手で背中から後頭部へ絶えまなく水を掛けた。そうしなければ熱くてじっとしていられないのだった。 人の声がするので見ると、すぐ側にお婆さんと子供2人がいる。子供は「おばあちゃん、熱いよ、熱いよ」と身を震わせている。お婆さんは一心に念仏を唱えていた。徳次は手をのばして子供達を自分のいる水溜りに引きよせ水を掛けてやった。それからお婆さんにも水を掛けた。
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社会 2009年05月29日 15時00分
経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(52)
2人には残っていた顕微鏡と硬度計、それに世界各国の金属繰出鉛筆の見本120種余りを持ち出してもらった。見本は徳次が長年かかって蒐集したものだった。 午後3時半頃まで家に留まっていたが、危険が身近に迫ったので、避難の方角を見定めると布団1枚を頭から被り表に飛び出した。まっすぐ深川の岩崎別邸を指して駆け出したが、堀割に架かる橋という橋は全て、避難民の持ち出した家財道具などの荷物で先へ進めない。 岩崎別邸は徳次が育った東大工町から目と鼻の先。生まれてから30年、東京本所や深川界隈で過ごしてきただけに土地勘はあったが、町並みが地震による倒壊のためにすっかり変わっていて、なかなか方向感覚がつかめない。 避難民の群れは後から後からやって来るが、前に行くことも後ろに引き返すこともできない。次の橋を探しても同様なのだ。 避難民の背後からは燃え盛る火が襲ってくる。走るよりも早く迫ってくるのだ。徳次は橋を渡ることが不可能と悟った。進退きわまってふと見ると、今、立っている前の堀割に巨木の丸太が一杯浮かべてある。 咄嗟(とっさ)に丸太から丸太へ跳び移り、ようやく向こう岸に上がった。それからやっと4つ、5つと堀割を越して、その後はやみくもに走った。 こうして岩崎別邸の手前、800メートルほどの所まで辿(たど)り着いた。しかし、ここでもう一歩も動けなくなった。 辺り一面、火の海なのだ。そこは300メートルほどで隅田川に合流するところ、小名木川に架かる高橋の袂(たもと)だった。 高橋は鉄骨の脚を持つ石造りの橋だ。徳次には普段よく通っているだけに馴染(なじみ)深い。緊急に避難するにはここがいいだろうと、鉄の橋脚に登った。少しほっとしたのも束の間、徳次が橋脚に登るのを見ていた群衆が、後から後から橋脚に登って来る。 あっという間に橋脚は避難民で鈴なりになった。徳次は中央辺りにいたが、他の人々から圧しつけられてしまった。