広大な岩崎別邸は命からがら逃げ延びた避難者達でごった返していた。邸内には建築物らしい物はほとんど残っていない。樹木がたくさん焼けていた。大声で「早川の者は誰かいないか!」と呼びながら歩いているうちに、すっかり夜が明けていることに気が付いた。
両目が痛むので右腕で押さえて10分ほど叫び歩いていると、「早川の旦那ですか」と手をつかんでくれる者があった。工場に出入りの者だった。
「皆さんが、あちらにおられますよ」と手を引いて、工場の者が3、4人かたまって座っているところに連れて行ってくれた。お互いに狂喜したが、徳次の妻子の安否を知る者はいなかった。
岩崎別邸に避難していた従業員達は相談して、夜露を凌(しの)ぐために仮小屋を作った。焼けたトタン板や付近の墓地から持ってきた墓標、塔婆(とうば)などでできた仮小屋の上に誰かが作った「早川徳次」という2本の幟(のぼり)の1本を立てた。もう1本は手に持って交代で邸内を回り、家族や他の従業員を探した。
2時間ほどして、徳次よりもひどく目を痛めた様子の川本が手を引かれて連れて来られた。川本は「ご主人、すみません」と言うと大声で泣き出した。そして徳次の妻と2人の子供は死んだと知らせた。川本も自分の妻子を失っていた。やがて仮小屋に従業員が集まってきた。
夕方になって「奥さんが来ましたヨー」と誰かが知らせた。死んだと思ったが助かったのだ。しかし「幽霊のようになって来ました」と言うのだ。徳次は目が開けられなかったので見ていないが、文子は頭髪が焼け、顔面には大きな傷が痣(あざ)のようになっていた。