どの方角からも火の手は上がっていて、どちらに避難したらいいか見当がつかない。ただ、深川の岩崎別邸(現・清澄庭園)方面がいくらか安全そうだった。
「あっちはもう火の海です」と押上分工場の川本工場長(大正4年入社)が逃げてきた。徳次は子供2人に晴れ着の紋服を着せ、帽子の上から頬被(ほおかぶ)りをしてやった。そして、自分も工場の始末を終え次第、すぐに追いつくからと、川本に文子と煕治、克己を連れて1キロほど南の岩崎別邸に避難するように頼んだ。
文子にくっついていた弟の克己が、「お父ちゃんも一緒に行こうよ」と突然泣き出した。川本に手を引かれた煕治も心細そうにして立ち止まり、なかなか行こうとしない。
「お父ちゃんは工場の後始末をしたら、すぐ後から追って行くから」と半ば叱るようにして行かせた。後ろ姿を見送っていた徳次は、ふと嫌な予感を覚えたが、まさかこれが生涯の別れになるとはもちろん、考えてもみなかった。
旅支度の和服からモーニングに着替えた。そしてポケットというポケットに現金20円ずつを入れた。乾パンと鰹節、銀のコップを1個用意して上から冬の外套を羽織り、冬の帽子を被った。さらに手拭(てぬぐ)いで頬被りをして長靴を履く。怪我を防ぐことと、野宿の備えを考えたのだった。
ずいぶん着込んだが全く暑いとは感じなかった。
雨が降りそうだったので洋傘を1本持った。しかしこれは、火災の煙が空に立ちこめているのを曇っていると思ったのだ。
準備ができると、徳次は座敷の真ん中に椅子を持ち出し、腰を掛けて暫(しばら)くじっとしていた。喧騒の中にあって不思議なほどに平静だった。
そこへ朝鮮半島からきて工場で働いていた青年が2人、徳次を心配してやってきた。