昭和21(1946)年2月、預金封鎖が実施された。戦後のインフレ抑圧政策の一環だが、国民は筍の皮を剥ぐように衣類や持物を少しずつ売って生活費に充て、どうにか毎日を食いつなぐ“筍生活”に追い込まれた。
終戦直後の混乱期をしのぐと、早川電機工業は戦争中に拡大していた事業を縮小し、再びラジオ生産に専念することにした。けれども資材不足は深刻で、生産も売行きも伸びず、復興の道のりは険しかった。それでも次第に資材不足の状況が改善され、ラジオ需要も回復した昭和24(1949)年5月、早川電機工業は株式上場を果たした。
喜びも束の間、この年から翌25年にかけて日本を大不況が襲い、早川電機工業も存亡の危機に直面する。この時、それまであった80社を超すラジオ製造会社の倒産が相次ぎ、18社にまで淘汰された。
ドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政で一般の購買力が激減したのだ。
昭和25年4月、5月は製造を一時停止して在庫品の消化とラジオ部分品の販売に全力を注いだ。しかし前年の4割の売上でしかなかった。借入金は膨らむ一方だった。
その上、買控えを助長する噂が流れた。新放送法の制定により、民間ラジオ放送局が開設される機運にあったが、「民間放送が実現するとNHKとの間に電波合戦が起こり、従来のラジオでは民放が聞けない、別の受信機が必要になる」という報道がなされた。つまり民間放送局開局まで既存ラジオは買わないほうが賢明だというのだ。これでラジオの売行きがパッタリ止まった。