洲崎神社は当初、元弁天社と称し、厳島神社の御分霊祭神・市杵島比売命を斎祀する。生類憐れみの令で有名な江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が守り神としていた元弁天社を、1700年(元禄13年)に江戸城中の紅葉山から遷したことが起源である。海岸から離れた小島に祀られたために「浮弁天」と呼ばれた。
当時の洲崎は海辺の景勝地で、釣りや潮干狩り、船遊びなどで賑わった。歌川広重の浮世絵・深川洲崎十万坪では、一面葦が生い茂る湿原が描かれている。明治時代に入り、神仏分離に際して洲崎神社と改称した。
近代以降は塩浜、枝川、豊洲と埋め立てが進み、海岸線は先になった。現在の洲崎神社は、住宅街の中に鎮座しており、浮弁天の面影はない。それでも境内から社殿を見ると、街中の浮島のような感覚にある。数ブロック先には交通量の激しい永代通りがあることが嘘のようである。
鳥居をくぐった左脇には「波除碑」と「津波警告の碑」がある。洲崎周辺は1791年(寛政3年)の台風による高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大破した。このため、幕府は一帯の土地を買い上げて空き地とした。当時は松平定信による寛政の改革が行われていた。
波除碑は3年後の1794年(寛政6年)に建てられた。この年は謎の浮世絵師・東洲斎写楽が活動した年であった。波除碑は江東区牡丹の平久橋にも建てられ、二基とも1976年6月4日に東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定された。
境内には江戸和竿の名人・竿忠の碑もあり、依然として海に縁がある。海と離れた神社で海難除けの御利益を求めることも面白い。
(『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者 林田力)