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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(72)

 徳次は全工程を1000に分け、1工程を16分にした。16分ごとに無線機が流れ、1000人の工員が作業する。こうして後日、改善を加えて月250台を生産するに至った。
 生産工程よりも、そのための準備のほうが大変だった。

 まず400坪の組立工場の建設。そして内部の設備、機械据付などを2カ月で終えなければ12月早々の生産開始が困難になる。これも監督官は「3カ月かかってもいいから確実に完了する計画を立てるべき」と言ったが、徳次はむしろ2か月を少し縮めて48日で完成させる計画に変えた。
 そしてさらに1日短い47日で完成させた。どうやったか。
 まず徳次は請負業者を呼んだ。そして早川金属工業が1000円、業者が1000円の奨励金を出すことを提案した。

 木材の買入から機械の据付まで、一切の仕事を細分し、それぞれの持ち場を期日までに終えれば奨励金と日当を合わせて支払う約束にしたのだ。
 この奨励は見事に効果を上げ、47日目には新工場では機械が動き始めていた。
 徳次は常に誠意と愛情をもって社員に接したが、中でも将来を担う若者達を育てることに熱意を注いだ。そんな若者達が次々と召集され、戦地に赴くようになっていた。
 さらに昭和19(1944)年に軍需会社に指定されると、大阪・和泉府中に工場を開設。航空無線機関連の大量生産を始めた。
 昭和20(1945)年、アメリカ軍は3月10日の東京大空襲に続き、3月13日の深夜から大阪を爆撃する。大阪大空襲である。
 約2000メートルの低空からの夜間爆撃で、その後もアメリカ軍は8月14日まで何度かの空襲を仕掛け、大阪市の殆どが焦土と化した。徳次は「当たる時は当たる」と言って、空襲警報が鳴っても一度も防空壕には避難しなかった。
 社長は肝が据わっている、と周囲は驚いたという。

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