当時の辛かった思い出を同業の松下幸之助が語ったことがあった。「首つりでもせにゃならんかと思ったよ」。急に深刻な表情をする松下に、徳次も身につまされて相槌を打つのだった。
銀行からの融資条件に人員削減があった。しかし徳次は従業員を解雇するのなら、むしろ会社を止める方針でいた。ところがこの時、全従業員から「会社を倒すな!」という声が上がった。組合が自主的に希望退職者を募り、人員削減にもっていく。徳次は深く感謝した。同時に身を切られる思いであった。銀行融資が実現し、早川電機工業には再建の道が開けた。
「入るを計って出ずるを制す」。昭和25年の苦境が骨身にしみた徳次は、この戒めを再認識した。そして「不況は明日来る」という心構えで経営再建に踏み出した。昭和25(1950)年6月25日、緊縮の最中に朝鮮戦争が勃発した。
朝鮮戦争により日本は輸出が急増し、国内需要も拡大した。朝鮮特需である。早川電機工業でも在庫は一掃され、黒字に転じることができた。しかし徳次はこの景気を一時的なものと見て、緊縮営業の方針を変えることはなかった。
昭和27(1952)年は民間放送の全局17社が出揃った。NHKのみの時代より歌謡曲、浪曲、万才ほかの娯楽番組が増え、人気を呼んだ。そしてラジオ需要が激増し、業界は未曽有の好況を迎えた。
この頃、欧米諸国では既に1946(昭和21)年のアメリカによる放送再開をはじめ、テレビ放送が開始されていた。日本の開始は昭和28(1953)年2月1日である。日本は戦争によるテレビ研究の中断で、基礎技術の特許の大半はアメリカに取得されていた。10年近くのブランクがあるため、大きなメーカーも、テレビに魅力は大いに感じるものの、開発には消極的だった。