新日本
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スポーツ 2017年10月06日 12時11分
女子キック近未来エース“ふくらはぎ女子”小林が初勝利!KNOCK OUT初の後楽園は大熱狂!
“神童”那須川天心もホームリングのひとつにしているキックボクシング団体『KNOCK OUT vol.5』が4日、後楽園ホールで開催された。 KNOCK OUT初進出となった後楽園ホール大会だが、天心や不可思、小笠原瑛作といったレギュラー陣が出場しなかったものの、発売されたチケットは全席完売、1,500人(札止め)の大観衆を集めた。 試合は、第1試合から大いに盛り上がり、第4試合では能登龍也とタネヨシホが軽量級の試合とは思えぬど迫力な試合を展開。結果は、ドローに終わってしまったが、誰もが続きを見たくなるような試合になった。観戦に訪れていた天心も「ベストバウト」と称賛。小野寺力プロデューサーも「軽量級がここまでの盛り上がりを見せるとは正直思っていなかった。近いうちにフライ級のトーナメントを開催したい」と石井一成など強い軽量級の選手を集めての最強決定戦を行いたいと明らかにした。 続く第5試合、怪我からの再起戦となる宮元啓介は、KNOCK OUT初出場の野呂裕貴と対戦。「復帰戦に負けたらKNOCK OUTにもう出られないという気持ちから緊張してしまった」という宮元は、2Rまでは押されていたが、3Rに一瞬の隙をついた綺麗な右ハイキックが野呂を捕らえて逆転KO勝利を飾った。内容には、「全く満足していない」と反省していたが、この勝利が12.10両国国技館大会の出場に繋がり、また、初出場となる新日本キックボクシングの江幡塁を迎え撃つことも発表された。天心、瑛作に敗れている宮元のリベンジロードに期待したい。 この日、一番の盛り上がりを見せたのはセミファイナルの水落洋祐と怪物くんの異名を持つ鈴木博昭の一戦だ。「森井選手や勝次選手、不可思選手の試合に大きな刺激を受けた」という水落は、2R、先に左フックでダウンを奪うも、3R、右ハイキックからのヒザ蹴りの連打を浴びてしまい逆にダウン。右ハイがかなり効いたのかこのラウンドは足がフラフラになりながら何とか持ちこたえた。4Rからそれまでのダメージを感じさせないラッシュを見せ、鈴木も笑顔で殴り返すという大激闘に客席からは「これぞKNOCK OUT」といった声が飛んだ。最終5Rも開始から怒涛のラッシュを見せた水落は右ストレートを炸裂させ鈴木がダウン。同時にセコンドからタオルが投入され激闘に終止符が打たれた。試合後、水落は「KNOCK OUTで勝てたことか嬉しい」と喜びを爆発。敗れた鈴木にも大きな拍手が送られた。 メインではライト級王座決定トーナメント準決勝の残る1試合、森井洋介対町田光が行われた。今回のトーナメントにキックボクサーとして進退をかけていた町田が、1Rから森井に圧力をかける闘いで追いつめていく。これに対して「いつもと違う」と察した森井は、2Rになると作戦を変更。町田がローキックを嫌がっているのを見逃さず、ローを中心に攻めていく。町田も何とか凌いでいたが、1Rの試合終盤に森井のヒジでカットした右まぶたからの出血が止まらず、ドクターチェックが入りTKOとなった。トーナメント決勝のカードは12.10両国で森井対勝次に決定。森井は「決勝に進出できて良かった。今日の分、決勝で爆発させます」と初の両国に向けて力強く話した。敗れた町田は、「試合結果は悔しい」と涙を浮かべながらコメント。進退に関しては少し休んでから結論を出すことになりそうだ。小野寺プロデューサーは、「まだまだKNOCK OUTに出てもらいたい選手」と現役続行を希望するコメントを出している。 今回はカードが弱いという前評判をよそに、KNOCK OUTの趣旨を理解した選手たちが好勝負を繰り広げたことで、とても熱気のある大会となった。今大会でKNOCK OUT本戦では初となる女子の試合が組まれたのは、来年以降のKNOCK OUTを占う意味でも大きな一歩だったといえるだろう。KNOCK OUTは、登竜門的な『ROAD TO KNOCK OUT』を渋谷TSUTAYA O-EASTで今年2回開催している。男子では、今回の大会で大ブレイクしたタネヨシホが本戦出場の切符を、宮元啓介も本戦再出場の切符をそれぞれこの大会で掴んでいる。『ROAD TO KNOCK OUT』では、女子の試合が2大会とも組まれていたが、21歳の小林愛三(まなぞう)が両大会で抜擢されている。『ROAD TO KNOCK OUT』では、引き分けが続き悔し涙を流していた小林だが、9戦5勝4分けとデビューから負け知らず。学生時代は、バレーボールに励んでいた小林だが、卒業後ボクササイズを始めたことでキックに興味を持ち、先輩にふくらはぎを褒められたことがキッカケで選手になろうと決意したという。ビジュアルも、カッコ可愛い系で、男性ファンだけではなく、女性ファンを獲得出来る可能性を秘めている女子ファイターだ。 初の本戦では、今年の5月に『ROAD TO』で対戦した“元祖”ビジュアルファイターの田嶋はる(22戦18勝3敗1分け)との決着戦が組まれた。後楽園は初という小林は、「以前、見にきたときは迷子になったんですよ」と笑っていたが、再戦に関しては「前回の試合では自分の甘さが出たので、そこを改善して肘で勝ちたい」と強い気持ちをもって試合に臨んでいた。その言葉通り、小林は1Rからこれまで以上にアグレッシブに攻め続けて、肘、パンチ、ローキックを効果的に田嶋に当てながら、田嶋の反撃にも臆することなく前に出続けた。そして、試合の主導権を最後まで渡さず、小林は判定で価値ある勝利を収めた。KNOCK OUT本戦では初の女子の試合に、観客は男子の試合と同じように一喜一憂していた。今後に関して小野寺プロデューサーは、「他にも女子のあのクラスは良い選手がたくさんいるので、来年は女子の試合も柱のひとつになるでしょう。もちろん愛三選手がその中心になります」と語り、来年以降のKNOCK OUT女子部門の継続と、小林を中心にマッチメイクされることも明らかにした。小林がKNOCK OUT女子部門の若きエースとして引っ張っていくことになりそうだ。 試合後、小林は“ふくらはぎ女子”について「ふくらはぎにまだ自信がない女の子も、ふくらはぎに自信がある女の子も、一緒に鍛えてふくらはぎ女子を広めていきましょう!」と最高の笑顔でふくらはぎ女子の普及を呼びかけた。スイカをこよなく愛し、美味しいものを食べることが大好きな21歳の“ふくらはぎ女子”小林愛三が、ジョシカクの世界だけではなく、KNOCK OUTのリングにも大きな風を吹かせてくれることを期待したい。 KNOCK OUTの次回大会は、『KING OF KNOCK OUT 2017』両国国技館大会で12月10日(日)に開催される。記事内の2試合の他に、不可思対金原正徳の好カードが発表されている。
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スポーツ 2017年10月01日 12時00分
プロレス解体新書 ROUND65 〈破壊なくして創造なし!〉 熱狂のZERO-ONE旗揚げ戦
2001年3月2日、橋本真也が「破壊なくして創造なし!」との理念を掲げ、プロレスリングZERO-ONE(ゼロワン)を旗揚げした。 当日のカードは、古巣の新日本プロレスをはじめ、三沢光晴率いるノア勢までもが参戦する豪華ラインナップ。当時の小泉純一郎首相が「自民党をぶっ壊す」と旋風を巻き起こしたのと同様、橋本にも大きな期待が寄せられた。 橋本真也が脳幹出血で亡くなってから今年で早12年。40歳での早すぎる死を惜しむ声は、今もなおファンの間で多く聞かれる。 爆殺キックに袈裟斬りチョップ、垂直落下式DDT。相手を叩き潰すかのごときその攻めっぷりから、橋本は“破壊王”の異名をとった。 だが、対戦相手が嫌がるほどの強さを誇ったその反面で、トニー・ホームや小川直也など特定の相手には、意外なほどのモロさを見せた。 「インタビューなどでも基本は豪放磊落でありながら、時にはポロッと弱音を漏らす。そんな二面性にファン心理をくすぐられ、“俺が応援しなきゃ”という気持ちになった人も多いでしょう」(プロレスライター) その橋本が新日本プロレスから独立し、2001年に旗揚げしたZERO-ONEは、当然のように多くのファンから支持を得た。 旗揚げ戦のメインイベントは橋本と永田裕志がタッグを組み、三沢光晴&秋山準と対戦するという、当時とすれば夢のカード。当日の両国国技館は超満員の観衆で埋め尽くされた。 「これはノア勢、それもトップの三沢が参戦し、素顔になってから初めて、新日系レスラーと絡むことへの期待も大きかった。しかし、その三沢の参戦もどこか橋本に魅力を感じたからこそ、実現したに違いないわけですからね」(同) このときの対抗戦に際しては、不機嫌そうな態度に終始した三沢だが、それは“対抗戦を盛り上げるためのアングル”と見るべきだろう。そもそも本当に嫌なら、上り調子の人気にあったこの時期のノアが、わざわざ海のものとも山のものとも分からない新興団体と絡む必要がない。 「エース格の小橋建太が膝の故障により欠場中だったため、その間のつなぎとしてZERO-ONE勢を使いたいというのも、どこかにあったでしょう。結局、交流が早々に打ち切られたために、実現はしませんでしたが…」(同) ただ、ZERO-ONEがまったくの橋本個人の団体だったかというと、疑問も残る。 そこには古巣の新日や、橋本が生涯の師と尊崇するアントニオ猪木の影が見え隠れしていたからだ。 もともとZERO-ONEは新日内の組織として準備されたもので、これを後押ししたのは、当時、社長の任にあった藤波辰爾だった。 「ただ現場監督の長州力に相談がないまま進められたため、これには強い反発もあった。また、橋本も“俺が社長になるんだから”と勝手にノアとの話を進めたり、無闇やたらと経費を使うことなどもあって、ついには後見役だったはずの藤波にも見放され、橋本が新日を解雇される形での独立となりました」(スポーツ紙記者) しかし、話はそこで終わらない。敵の敵は味方というわけではないが、藤波から見捨てられた橋本に、長州ら現場主流派が接近を図ることになるのだ。 「例えば、旗揚げ当初からフロント業務を一手に引き受けて、のちに社長にもなった中村祥之氏は、長州のリキプロのアルバイトから新日に入社した人物です。また、新日からZERO-ONE入りした大谷晋二郎や高岩竜一も、特に橋本との関係が深かったわけではなく、この移籍には新日現場の意向が働いたものと思われます。海外修行からヘビー転向し、直前にはIWGP王座にも挑戦していた大谷が、特に揉めることなくすんなり移籍したのだから、何か裏があったと見る方が自然でしょう」(同) さらに、旗揚げ戦で橋本のタッグパートナーに名乗りを上げた永田は、新日内のレスリング経験者によるユニットG-EGGSを立ち上げるなど売り出しの真っ最中であり、本当に長州らが橋本を敵視していたなら、この参戦もあり得ない。 「だからといって完全に新日のヒモ付きということではなく、“いつか儲けのタネにするためにツバをつけておこう”ぐらいの感覚だったと思われます。猪木が手駒の小川と藤田(和之)を派遣したのも、やはり同じ理由からでしょう」(同) そんな多方面からの思惑が入り乱れる中で、メインイベントが行われた。誰もが負けて格を落としたくないとなれば、団体トップの橋本が責任を取る形で、三沢からピンフォールを奪われたのもやむを得なかったのだろう(橋本が秋山準とやり合う隙をついて、ジャーマンスープレックスからの片エビ固め)。 呆気ない終幕に観客席からは不満の声も飛んだが、この大会の本番はむしろここからだった。最初に小川が乱入してマイクで挑発すると、そこに三沢がエルボーで突進して大乱闘が勃発。 「誰が一番強いかここで決めればいい」という藤田のマイクに、三沢は「お前らの思う通りにはさせねぇよ、絶対」と応じてみせた。 「このコメントは対抗戦を拒絶したように思えるが、三沢が試合後にマイクを持つこと自体が極めて異例。乱闘参加も含めて、橋本への大サービスと見るべきでしょう」(専門誌記者) このまま発展すればまさしく夢の舞台の実現もあったろうが、現実にそうならなかったのは、いったい誰のせいだったのだろうか…。
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スポーツ 2017年09月11日 14時00分
「プロレス解体新書」特別編3 キラー・カーンが語る 俺の名勝負!
夏の特別編第3弾はキラー・カーンの登場。モンゴリアン・チョップで知られる“蒙古の怪人”が、アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争をはじめ、リング外での交流も含めてじっくりと語った! 名勝負を一つ選べといっても難しいなあ。自分で言うのも何だけど、アメリカではWWF(現WWE)でボブ・バックランドやアンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンらとやった試合もよかったし、他にもテッド・デビアスやダイナマイト・キッドとの抗争は連日満員で、プロモーターから「ファンタスティック!」とベタ褒めされたよ。 日本だと、猪木さんや辰っつぁん(藤波辰爾)との試合もよかったけど、それでもあえて選ぶなら、やっぱり蔵前国技館のアンドレ戦かな(1982年4月1日、第5回MSGシリーズ決勝戦)。 実はアンドレが初めて新日本プロレスに来た頃、俺は外国人係として身の周りの世話をしたこともあってね。だからアンドレは俺のことを1回たりともキラー・カーンと呼んだことはなくて、いつも「オザワ、オザワ」って呼んでくれました(本名は小沢正志)。 俺もアンドレの人間性は知っていたし、お互いに気心が知れていた。そういう者同士がやると、自然といい試合になるんです。もちろんアンドレ自身が試合巧者だったし、プロレスがどういうものかをよく心得ていた天才ですから、俺も闘いやすかったしね。 プロレスラーというのは、第一にお客さんを動員できなきゃいけない。中でもメインイベンターは一番責任があるわけで、そこでお客さんを呼べなければやっぱり二流なんですね。 その点で言っても、アンドレはどこでもお客さんを呼べた超一流です。ワシントンかどこかの大会場に、当時、人気上昇中だったロード・ウォリアーズが来て8割ぐらい埋まったらしいんだけど、その2週間後に俺とアンドレでメインイベントをやったら、お客さんが入りきらなかったことがありました。そのときはうれしかったですよ。 いわゆる“足折り事件”については、俺が喉元を狙ってニードロップを放ったときに、アンドレが急に立ち上がって足首に当たっちゃった事故です。 アンドレがリングで足をひねって、そこを俺が臨機応変に攻めたというのは、高橋さん(ミスター高橋)が本を書いたとき、面白おかしく話を盛っただけで、真実とは違うんですよ。 まあ、それで日本でもアンドレと闘うことになりました。蔵前での試合はアメリカとは逆で、アンドレがヒール(悪玉)で俺はベビーフェース(善玉)のような感じでしたけど、ファンの半分はアンドレの応援だったんじゃないですか。 もともとは猪木さんとアンドレが決勝で闘う予定だったのに、猪木さんが負傷欠場して俺はその代役でした。だから正直に言えば、最初は“とにかく長い時間リングに立って、できる限りの試合をしよう”と思っていたんです。だけど試合が進むうちに、俺がアンドレに対抗できたのもあって、お客さんから「小沢、小沢」ってコールが起きてね。それで闘志が湧いたのを覚えていますよ。 同年のMSGシリーズは全14選手による総当たり戦で、リーグ戦のトップ通過がアンドレ、2位が猪木だった。しかし、猪木はシリーズ中のアンドレ戦で左ひざを痛め、さらに決勝前日、テキサス・アウトローズの攻撃により状態が悪化。当日棄権となり、3位のカーンが繰り上がりで決勝に臨んだ。アンドレの足狙いで攻勢に出たカーンは、チョップの連打でぐらつかせるなど見せ場をつくったが、最後はアンドレがヒップドロップで勝利を収めた。 アンドレとの対戦で、俺がピンフォール勝ちしたことは結局1回もないですね。今だから言うけど、一度だけアンドレが試合前に人を介して、俺に「今日はボディスラムで投げろ」と言ってきたことがありました。だけど俺は、「いや、そんなことできるわけがない」と断ったんです。そしたらアンドレは、「オザワは人がいいなあ」と言ってくれたけどね。 ボディスラムで投げること自体は、お互いにタイミングを合わせればできるんです。でも、箔付けのために頼み込んで投げさせてもらうんじゃなく、アンドレ自身がそうやって俺のことを認めてくれたことだけで十分ですよ。 そんなこんなでアンドレは、最後まで俺のことを気に掛けてくれました。アンドレが亡くなった後に人づてに聞いたんだけど、「オザワが店をやっているんだったら、日本に行ったときにそっと訪れて驚かしてやるから、そのことは黙っておけ」なんてことも言っていたそうです。 それを知ったときは、もう本当に涙が出ちゃった。アンドレってそういう心の温かい人間だったよね。
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スポーツ 2017年08月31日 16時00分
「プロレス解体新書」特別編2 藤波辰爾が語る 俺の名勝負!
ドラゴン殺法のジュニア時代から長州力との名勝負数え唄、UWFや外国人勢との闘いなど、数々の名勝負を残してきた藤波辰爾。そんな中から自身がベストバウトとして選んだのは、1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木との一戦、60分フルタイムを闘い抜いた師弟対決だ! 僕がベストバウトを選ばせてもらうとなれば、やっぱり猪木さんとの8・8です。この試合に先立って、僕の持つIWGPのベルトへの挑戦権を懸けた決定戦があったけれど、周りのムードからしても猪木さんが勝ち上がってくるものだと準備はしていました。 だから当日は無心で闘いに臨めたけれど、今になって思うとやっぱり夢の世界ですよね。猪木さんの待つリングに僕が後から上がって行くなんて、まずあり得ないことですから。 弟子である僕をリングで待つというのも、またすごいことですよ。あの人は本当に捨てるものがないというか、いざとなったら何でもやってしまうんです。あれだけプライドの高い人だから、普通はそういう試合を組まれてもまず出てこない。でも、あのときは身をもってすべてのものをさらけ出した。そこが猪木さんの底力なんでしょうね。 この試合より前、'85年にはタッグマッチで猪木さんからフォールを取っていますが、それで猪木越えを果たしたという気持ちはなかったですね。そもそも僕の場合は、新日本プロレスの立ち上げからずっと猪木さんと一緒にいるわけでしょ。だから、猪木さんとの闘いに100%の気持ちを向けられないんです。どこかで「会社のためにも猪木さんを支えていかなきゃ」って部分がある。 でも、ファンの期待に応えるために、自分の殻を破って猪木さんを越えなきゃいけない、という部分も当然あるんですよ。その意味で8・8は猪木越えの最大のチャンスだったわけですが、あのときは自分の中で気持ちがすごく楽だったんですね。それまでの闘いはいろいろと考えが交錯する中でやってきたけど、あのときは素直に「よし、自分の気持ちをそのままぶつけられる!」と、猪木さんが相手でもプレッシャーを感じなかった。 試合になっても不思議と時間がたつほどにアドレナリンが出て、あの60分は気持ちがよくて「時間よ止まれ」って思ったぐらいでした。試合の序盤でジャイアントスイングを仕掛けたんですけど、それまでやったことがない技ですよ。猪木さんが跳んできたときに自分がその脚を抱えて、たまたま体勢に入ったから振り回しただけです。本当に成り行きで、本能のまま闘っていたんですよね。 あと、改めて思うのが猪木さんのすごさですよ。あのとき45歳、それもいろんな障害というか負担を抱えている中で、60分間の最後まで闘志や動きが衰えることがなかったですから。猪木さん自身も引退を間近にして、きっと心のどこかで「選手として燃え尽きたい」「出し切りたい」というものがあったと思うんですよね。だから僕が感じるに、あのときは猪木さんが最後に燃え尽きた試合だったと思います。 試合の前には猪木さんが“負けたら引退”という報道があって、ファンもこの試合が大きな山場になると感じていたのでしょう。猪木さんへの声援もすごかったし、あとで映像を見たら、テレビカメラが会場の絵をずっと追っていくときに、お客さんたちの悲壮観まで伝わってくる。あれじゃあ、もし僕が勝っていたら暴動が起きてましたよ。 今から思えば、引き分けというのは一番いい結果だったじゃないかな。勝っていたら僕の時代が来るんじゃなくて、新日本のファンはきっとさめていたでしょう。試合が終わったときは気持ちよかったっていうか、やっぱり自分の中でいろんなものがすっきりしました。 もちろん勝ちたかったというのはあるけれど、それでも猪木さん相手にIWGP王座を防衛できた。翌年の腰の故障がなければね、僕なりのエース像というのが確立できたのではないかと思います。でも、それが人生、うまくいかないもんですよ。だから8・8で、本来あるべきプロレスの試合ができたことは、本当によかったと思います。 この試合について猪木さんと話したことは、いまだにありません。まあ、レスラーっていうのは「あのときの試合はこうだった」とか「あのときの技は」なんて、あんまり振り返らないものですよ。長州(力)や前田(日明)ともそうです。だって僕から「猪木さん、あのときの試合はどうだったですか?」なんて聞けます? 聞けないですよ(笑)。
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スポーツ 2017年08月30日 12時00分
新日本プロレス真の主役奪取へ!“G1覇者”内藤哲也、1.4東京ドーム大会メイン出場なるか?
新日本プロレス毎年恒例の真夏の最強決定戦『G1 CLIMAX 27』優勝決定戦が13日、両国国技館で行われ、Aブロック首位の内藤哲也と、Bブロック首位のケニー・オメガが対戦。『G1』決勝戦史上最長となる34分35秒の激闘の末、内藤が必殺技デスティーノを決めて見事勝利を収め、4年ぶり2度目の優勝を果たした。「4年前に、俺はこの『G1 CLIMAX』、頂点に立ったんですが、あのときは背伸びをしていて、正直なことを言えませんでした。ただし、いまの俺なら、自信を持って言える!この新日本プロレスの主役は…俺だ!」 試合後に行われた優勝セレモニーの後、10,280人超満員札止めの大観衆から送られた大内藤コールに包まれる中、マイクを掴んだ内藤はファンの支持が得られなかった4年前に『G1』初優勝をしたときの決め台詞「新日本プロレスの主役は俺だ」というフレーズを久々に叫んだ。 現在はロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンのリーダーとして、新日本プロレスで一番の人気を集めている内藤だが、4年前、エース棚橋弘至を優勝決定戦で下し『G1』初優勝という、本来であればその後のスター街道が保証されるほどの価値ある勲章を得たにもかかわらず、まったく活かすことができなかった。2014年の1.4東京ドーム大会でオカダ・カズチカに挑戦したIWGPヘビー級選手権は、ファン投票の末、中邑真輔対棚橋弘至のIWGPインターコンチネンタル選手権に敗れ、セミファイナルに降格した。ラフファイトをするわけでもないのにブーイングを浴びる日々。しかし、2015年のメキシコCMLL遠征で現地のユニット、ロス・インゴベルナブレスに合流したことから流れが変わり、新日本マットにも持ち込んだことで日本でもロスインゴ旋風が起こり、内藤は制御不能の反体制派レスラーとして大ブレイク。昨年はIWGPヘビー級王座の初戴冠、プロレス大賞のMVPを受賞。決め台詞の「トランキーロ!焦んなよ」はプロレス流行語として広く認知されている。 リング上で、4年前は「背伸びをしていた」と当時の素直な気持ちを明らかにしていたが、あの苦しんだ時期を乗り越えたからこそ内藤やロスインゴの大ブレイクに繋がったのは間違いない。大会翌日、『G1』覇者の内藤に4年前と同じく『2018年1月4日東京ドーム大会メインイベントでのIWGPヘビー級王座挑戦権利証』が与えられた。一夜明け会見でも語っていたが、内藤にとって1.4東京ドームメインの舞台は未知なる領域。IWGPヘビー級のベルトよりもドームのメインに立ちたい気持ちのほうが強いという。権利証には防衛義務があるが、内藤は「挑戦権利証の防衛戦が組まれるのであれば、俺は石井(智宏)を指名しますよ。あとは、昨日バックステージで言いましたよ。思ってることは口にしないと、思ってるだけじゃ、誰に何も伝わらないよ。何か意見があるなら、言葉にして口にして皆様に伝えないと、何も始まらないからね。もし、この権利証であったり、内藤であったり、東京ドームのメインイベントに関しても、『俺が挑戦したいんだ』と『俺がやりたいんだ』という意見があるのであれば、それは口に出すべきですよ。『俺がいまやりたい』とハッキリと口にしてるのは、石井だけですからね。俺に勝った(バッドラック)ファレであり、俺と対戦していないBブロックの選手でありね、『俺にやらせろ』という選手がいるなら、ハッキリ口に出すべきですよ」とコメント。後日、10.9両国国技館大会で石井との防衛戦が発表された。同時に10.9両国大会のメインで、オカダ対EVILによるIWGPヘビー級選手権試合の開催も決定。内藤対石井、オカダ対EVILの勝者が1.4ドーム大会のメインに立つことになりそうだ。内藤は「ドームのメインはEVILとやりたい」と言うだろうが、4年前のリベンジを果たすなら相手はオカダしかいない。 7月17日の札幌・北海きたえーる大会から、最後の両国国技館3連戦まで全19大会に渡って開催された『G1 CLIMAX 27』だが、今年は全国的に前売券が飛ぶように売れたという。両国3連戦は3日連続札止めの快挙。各会場のファンの熱狂ぶりも半端ではなかった。新日本プロレスの勢いはとどまることを知らない。 下半期の新日本マットは、『G1』覇者として1.4ドーム大会のメイン出場へ王手をかけた内藤を中心に回って行くのは確実だ。1.4ドームまでに内藤の存在を脅かす選手が出てくるとは考え難い。そう思ってしまうほど、今年の『G1』での内藤の試合は負けた試合も含めて自信に満ち溢れていた。内藤が東京ドームのメインでIWGPヘビー級王座を奪還したとき、真の新日本プロレスの主役になる。取材・文/どら増田カメラマン/広瀬ゼンイチ
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スポーツ 2017年08月28日 12時30分
那須川天心対小笠原瑛作実現へ待ったなし!KNOCK OUTが生み出した新たな価値観
ヒジありのキックボクシングイベント『KNOCK OUT vol.4』が20日、大田区総合体育館で開催され、3050人(超満員)の観衆を集めた。 会場は試合開始時間が過ぎても観客が会場内に入れないほどの大入りで、試合開始時間を少し遅らせて選手入場式が行われた。 オープニングマッチでは、那須川天心との対戦をアピールし、来月6日に後楽園ホールで行われる『REBELS.52』でISKA世界バンタム級王座決定戦に出場する小笠原瑛作が強行出場。韓国のファン・ヒョシクを相手に2R 42秒、ヒジ打ちがズバリと決まりTKO勝ちを収めた。試合後、瑛作は「12月に天心とやりたい」と初めて対戦時期にまで言及。今大会は天心が参戦するから強行出場したと発言した上で「きょうの大会は僕がオープニングマッチで、天心がメイン。もうストーリーは出来上がっている」と俳優との二刀流を目指している瑛作ならではの表現でアピール。最後は「天心戦までは全勝します」と力を込めた。 第2試合では、『KNOCK OUT vol.3』6.17TDCホール大会のメインで行われたKNOCK OUT認定ライト級王座決定トーナメント1回戦で、新日本キックの勝次と6度のダウンの応酬の上敗れた不可思が、17歳の“新鋭”茂木俊介と再起戦を行った。不可思はこれまでのガンガン行くスタイルだけじゃなく、幅広いテクニックを披露し、若い茂木を翻弄。4R 35秒、セコンドのタオル投入によるTKO勝ちを収めた。試合後、7.20『ROAD TO KNOCK OUT 2』渋谷TSUTAYA O-EAST大会のメインに出場し、キックボクシング初挑戦で中尾満をTKOで破ったMMAファイター金原正徳からの対戦要望に対して「いつでもやりますよ。でも向こうはMMAの選手。片手間で勝てるほどキックは甘くない。俺とやりたいと言ったのを後悔させるぐらいの差を見せつけてやります」とギラつきを取り戻した瞳で次なる標的を金原に定めた。 休憩明けの第5試合にはミスターKNOCK OUTの呼び声高い森井洋介が登場。トーナメント2回戦で対戦予定だった町田光が怪我による欠場により、このカードが10.4『KNOCK OUT vol.5』後楽園ホール大会にスライドしたため、韓国のジュ・キフンと対戦。2Rにギフンの飛びヒザ蹴りにより左目尻からまさかの出血。ドクターチェックを受けると、スイッチが入ったのか森井が猛攻。ギフンは何とか2Rは耐えたが、3Rに入っても森井の勢いは止まらず、強烈な左ボディが決まり49秒でKO勝ちを収めた。試合後、森井は「夏は暑いから苦手。今回がいちばん調整がキツかった」と調整に苦労したことを明らかにするも、記者が「(出血で)森井さんキレましたか?」と質問すると「はい(笑)。でも大丈夫です。このまま決勝まで任せてください」と笑顔を浮かべながら自信を覗かせた。 セミファイナルではライト級トーナメント2回戦、前口太尊と勝次が対戦。プロレスを強くリスペクトしている前口は、親交があるプロレスラー飯伏幸太の影響もあり、路上プロレスならぬ路上キックを提唱。実際、小笠原瑛作と都内の書店でエキシビションマッチ『本屋キック』を実現させている。勝次とも“ろくでなしブルース対決”と位置づけて「タイマン勝負」と挑発を繰り返すなど、試合に向けて煽りまくった。一方、1回戦で不可思との激闘を制した勝次の株も急上昇しており、地元蒲田での大会ということで多くの応援団や、前回大会同様、新日本キックのファンが会場に多数詰めかけていた。会場はゴング前から期待感に包まれていたが、試合は予想をはるかに超える大激戦となった。PRIDEでの名場面と言われている高山善廣対ドン・フライを彷彿とさせるような両者の殴り合いに会場は大爆発。試合の途中からは涙を流すファンや関係者の姿も見られた。最後は勝次が最終の5R 2:31、右ストレートを決めたところでレフェリーが止めてKO勝ち。試合後、両選手への拍手が鳴り止まなかった。試合後、バックステージで、勝次がインタビュールームに向かう途中、セコンドに肩を借りた前口が現れ「ありがとうございました」と改めて握手。その後、前口は眼窩底骨折により救急車で搬送(今週手術の予定)された。勝次は「激闘するつもりじゃなかったんだけどな」と話しながらも充実した表情を浮かべながら、新日本キックの伝統と意地を背負って決勝も闘い抜くことを誓った。 メインでは“神童”那須川天心が今年2月以来、約半年ぶりの『KNOCK OUT』参戦。『KNOCK OUT』では初のメインイベントをタイのウィサンレック相手に務めた。ウィサンレックはムエタイで価値が高いとされるルンピニースタジアム認定フライ級とバンタム級王座に就いたことがあり、戦績は300戦を超えるベテラン選手。試合は最近の天心にしては珍しく長期戦になった。2R、ウィサンレックのローが下腹部に入り、試合は一時中断。再開後、ウィサンレックの蹴りが今度はエグい角度で下腹部に入り、天心は声を出しながら悶絶して倒れてしまう。ここでウィサンレックにレッドカード(減点1)。天心は立ち上がると両手を広げて「大丈夫」とアピール。場内のちびっ子からは「天心ガンバレー」の声援が飛び交った。3R、天心の飛びヒザ蹴りでウィサンレックが目じりから流血しドクターチェック。再開後、再び出血しドクターチェックの結果、2分45秒ドクターストップによるTKO勝ちとなった。 試合後、マイクを掴んだ天心は「ちょっと自分らしくない終わり方というか。ここからだと思っていたんですが、狙っていた顔面ヒザが入って勝てたのでよかったと思います。こんな満員の素晴らしい舞台でメインを張れるのは嬉しい。僕は戦うことが使命だと思っています。皆さんが望むなら期間が短くても激しい試合をして誰とでも僕はやります。これからもいい試合をして皆さんを喜ばせる試合をします」と語ると「KNOCK OUTサイコー!」と叫んで初のメインを締めた。 バックステージでは「きょうはいろんな技を出せたから良かった。まだ出そうと思ってた技もあったんですけどね。その前に(終わった)。」と試合を振り返ると、オープニングマッチの試合後に「12月」という具体的な対戦時期にまで言及した小笠原瑛作について「こっちはきょうやっても良かった。でも向こうも勝ってるし、僕はいつでもいいですよ」と語り、12月という時期についても「異存はないです」とキッパリ答え、対戦要望を受諾した。入場時にはRIZIN7.30さいたまスーパーアリーナ大会から着用しているLEDを搭載した電飾コスチュームに場内からどよめきが起きていたが「みんな驚いてましたね。小林幸子さんを目指しているので!」とさらなる進化を予告。天心の髪型を真似た天心カットをした少年ファンが増えていることについては「はじめこの髪型にしたとき、父親には『そんなの流行らないよ』って言われたんですけど、流行ってきましたよね(笑)。嬉しいです」と笑顔で語った。次戦はRIZIN10.15マリンメッセ福岡大会。連戦が続いたためやっと10代最後の夏休みに入るという。インタビューのあとローブローについて「あれかなりヤバかったですよ」と漏らしていたが、秋から年末にかけても試合が多く入ることが予想されるため、ここはしっかりとケアしてもらいたい。 大会を総括した『KNOCK OUT』の小野寺力プロデューサーは「選手たちが本当に頑張ってくれた」と前回の大会に続いて“神興行”になった今大会を振り返った。天心対瑛作に関しては「天心の次の相手は瑛作以外に考えられない。皆さんも観たいでしょう」とコメント。「12月大会(会場未定)での実現を軸に調整に入りたい」としながらも、12月は天心が年末にRIZINへの出場が予想されるため、「もし12月に出来なくてもその次には組みたい」と時期に関しては含みを持たせた。また不可思と金原の対戦に関しては「金原くんを誰が止めるのか?というときに不可思くんが名乗り上げてくれたのは楽しみ」とゴーサインを出した。 今回で4度目の開催となる『KNOCK OUT』だが、勝負論が最優先される格闘技の世界において、勝次に敗れた不可思や前口太尊が戦前よりも価値を高めるという、ちょっとした逆転現象が起きている。連勝を続けている森井洋介は試合内容が保証されていることから旗揚げ当初よりも人気を集める選手に成長した。町田光戦の結果にもよるが、森井が勝次とトーナメントの決勝で対戦するようなことになれば、キックボクシング史に残る激闘になる可能性が高い。勝ち続ける選手に光が当たるのは当然のことだが、『KNOCK OUT』は敗れた選手にも、その続きが見られるストーリー的な楽しみがある。これは格闘技界にとって新たな価値観を生み出したと言ってもいい。天心ブームにより子どものファンや競技者が増えているのも未来への希望を感じる。次回大会『KNOCK OUT vol.5』は10.4“聖地”後楽園ホールで初開催だ。取材・文/どら増田写真(C)キックスロード
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スポーツ 2017年08月27日 17時00分
「プロレス解体新書」特別編(1) 天龍源一郎が語る 俺の名勝負!
連載企画「プロレス解体新書」は夏の特別編「俺の名勝負」と題して、今回から3回にわたりレジェンドレスラーのインタビューをお送りする。第1回に登場願ったのは一昨年の現役引退から舞台を移し、今では芸能界でも活躍著しい天龍源一郎。鶴龍対決からオカダカズチカとの引退戦まで、数多の名勝負の中から選んだのは、1994年1月4日、東京ドームでのアントニオ猪木戦だ。 思い出の試合を一つとなると、やっぱり猪木さんとの一戦ですね。今にして思えば、馬場さんから直接指導を受けた全日本プロレス育ちの天龍源一郎と、一騎討ちに踏み込む猪木さんというのは本当にすごいですよ。 猪木さんはずっと馬場さんと全日本を挑発してきた。だけど馬場さんは「アントニオ猪木とは関わりたくない」という確固たるものがあった。そんな中で俺としては、対抗戦でも何でもやってほしいという気持ちはありました。 だから馬場さんが「社長に就任した坂口征二を助けたいんだ」と言って、東京ドーム大会で対抗戦が実現したときは('90年2月10日)、全日本プロレスここにありというのを見せてやろうという気持ちでしたね。 馬場さんは昔から坂口さんとは馬が合ったみたいで、それで「坂口なら」ということだったんでしょう。でも、やる以上は、やっぱり負けてはいけないからと、俺のパートナーも最初は川田(利明)だったけど、それをタイガーマスク(2代目=三沢光晴)にマッチメークを代えたのを覚えています(新日側は長州力&ジョージ高野。結果はリングアウトで天龍組の勝利)。 その後、俺は全日本を離れてSWSからWARといろいろあったわけですが、その間もずっと変わらずに応援を続けてくれるファンに対して、それまでと同じではなく、違う選手と闘っていく姿を見てほしいという気持ちがありました。高田(延彦)選手とかいろんな選手と手を変え品を変えやっていたんですね。 だから、新日本から猪木戦のオファーが来たときには、対抗戦のような意識ではなくて「とうとうここまで来たか」というのが、正直な思いでしたよ。やっぱり猪木さんといえば新日本の象徴でしたから。 事前には格闘技ルールという話もありましたけど、坂口さんとかいろんな人が間に入って、「じゃあプロレスで」っていうことで落ち着いたんですけどね。 猪木さんのチョークスリーパーは、腕が喉元に入ってくるのが分かって「ああ、これがアントニオ猪木のスリーパーか」って他人事のような感じで、それで気が付いたときには、もう長州から顔面を叩かれているときだったんですよね。完全に落ちてしまって、その間のことはまったく覚えてないんです。 あれは何なんですかねえ。リングで猪木さんの体を見たときは華奢な感じがして、もしもあれが丸太のような腕だったら落とされるわけにはいかないと、こっちも構えたかもしれないんですけど…。ちょっと油断していたところがあったかもしれません。 あの頃の猪木さんは、もう引退ロードで試合をチョイスしながらやっていて、その力がどれほどのものなのか、最後に試してやろうといううぬぼれも少しありました。でもそれ以上に、やめる人に無様に負けてはいけないという、そっちの気持ちの方が強かったですね。 スリーパーで落とされた後、俺もムキになってバババーッと突っ張って、思い切りチョップをしたのを覚えています。もうこうなったら勝っても負けても関係なしに、天龍源一郎というものを見せなければいけないって、気持ちが切り替わったんですね。 勝ったときっていうのは不思議な感じでした。パワーボムでバーンとマットに叩きつけて、ガッと押さえ込んで、それでも返されるんじゃないかなっていう気持ちもあって…。 ワン、ツー、スリーって入ったか入らないかで猪木さんがパッと起きて向かってきたときには、俺自身も頭が混乱していました。勝ったのか負けたのかも分からなかったんですけど、レフェリーに手を上げられて、ああ勝ったんだなって。何といってもその前に、スリーパーで1回落とされていましたしね。 “馬場と猪木の両方から、スリーカウントを奪った唯一の日本人レスラー”ということに関しては、試合前にそういう狙いもちょっとはありました。でも、そんな勝ち負け以上に、俺がこれまでにいろんなことをやってきた中で、猪木さんと闘えるっていうことへの満足感の方が大きかった。 ただまあ、後々になってからは「馬場、猪木に勝った天龍源一郎」と言われることが、うっとうしくもありましたね。 自分でWARという団体を持ったことで、俺自身が食っていくだけでなく、所属する選手たちのことを養っていくという宿命みたいなものがありました。そんな中で電流爆破デスマッチをやったり、女子プロレスの神取(忍)とやったり、あるいは言葉としては悪いけれども、屁みたいなレスラーとも戦わなきゃいけない俺がいるわけですよ。 そんなときに「あの馬場と猪木に勝った天龍が誰々とやる」という目で見られることが、邪魔になるというんですかねえ、そういう試合をしている自分が歯がゆいというか、俺の心の中でも葛藤がありました。 だから今でもよく言うんですけど、猪木さんに勝った時点で「もう腹いっぱいだ」ってリングからスッと引いていたら、格好よかっただろうなって振り返ったりもします(笑)。 それほどまでにあの試合というのは、プロレスラーで居続けることの存在価値をいろんな意味で持たせてくれた試合でした。
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スポーツ 2017年08月14日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND62 〈前田vsゴルドーの真相〉 格闘技の礎となった“過剰”な一戦
1988年8月、超満員の観客に埋め尽くされた有明コロシアムで、前田日明vsジェラルド・ゴルドーの一戦が行われた。防戦一方の前田が逆転勝利を収めたこの戦いは、凡戦か、それとも名勝負なのか? UWFをけん引した“格闘王”前田日明。新日本プロレス時代に古舘伊知郎が連呼した“黒髪のロベスピエール”とのキャッチフレーズから、プロレス界の革命児のイメージを持つ人も多いだろう。 だが、改めて見たときに、前田自身がその意思によって革新的な一歩を踏み出したという事例は、案外と少ない。 「最初にUWFへ移籍したのは社命によるものですし、そのUWFに格闘色を持ち込んだのは後から合流した佐山聡です。第2次UWFやリングスの旗揚げにしても、前田自身が積極的に動いたというよりは、流れに身を任せた部分が少なからずありました」(プロレスライター) UWFのスタイルについて“プロレスから総合格闘技へと移行する橋渡しになった”と評価する声もあるが、それは今になって言えること。そもそも総合格闘技という概念すら定まっていなかった時代なのだから、UWFがそれを目指したというのはやや無理のある推論だろう。 「結局、前田自身も語っているように、『猪木さんの言う“理想のプロレス”を追求しただけ』というのが掛け値なしの真相なのでしょう」(同) とはいえ、何をやるにおいても“過剰”な前田だからこそ、普通にプロレスをしていてもその枠内に収まり切らず、自然発生的にUWFの進化が起こったとも言える。その意味でやはり前田は特別な存在であった。 そんな前田がジェラルド・ゴルドー('95年には反則のサミングで、修斗の中井祐樹を失明させるなど悪しき過剰さで知られる)と対戦したのは、第2次UWFが旗揚げしてから3カ月後の'88年8月13日、まだ天井がなかった時代の有明コロシアムで開催された『真夏の格闘技戦』のメインイベントだった。 しかし、この試合が後に物議を醸すことになる。ゴルドーがインタビューなどにおいて、前田戦が純粋な格闘技ではなく「あらかじめ結末の決まった試合だった」と話したのだ。 UWFがプロレスの範ちゅうにあったと指摘する声は、それ以前から各所で囁かれていたが、当事者があからさまに語ったことのインパクトは大きかった。これにより格闘技ファンからは“やはり前田とUWFはガチンコではなかった”と、批判を一層強く受けることになる。 「実際のところ、この大会の時点ではまだUWFも試行錯誤の段階で、山崎一夫と田延彦の対戦などは、山崎がハイキックからの3カウントピンフォール勝ちという従来のプロレス的な結果となっています。そのような新日参戦時の延長線上として見たときには、前田vsゴルドーもいろいろと興味深いんですけどね」(格闘技ライター) この試合の前年、極真空手の世界大会で初来日したゴルドーは、その長身もあって“白いウィリー・ウイリアムス”とも呼ばれた強豪で(当時は和彫りの刺青は入れていなかった)、前田に対しても評判に違わぬ鋭い蹴りを次々と放っていく。 また、グラウンドの展開になったとき、すぐに体を入れ替えて上になる体さばきからは、生来の“格闘技勘のよさ”が感じられた。 「この頃はまだ、ポジショニングという考え方が一般的ではなく、前田が極め切れなかったというのもあるのでしょうが、それを差し引いてもゴルドーの動きは天性の才能を感じさせる素晴らしいものでした」(同) 一方の前田はというと、プロレスラー相手なら有効な蹴りもその道のエキスパートであるゴルドーには通じず、苦し紛れのタックルも簡単に潰されてしまう。 「腰が入らないまま手から飛び込むいわゆる“くわがたタックル”で、この頃はタックルの練習自体をほとんどしていなかったのかもしれません。ただ技術的には物足りなくとも、驚かされるのはその根性。並みの選手なら、2〜3発も食らえば戦意喪失となって不思議のないゴルドーのローキックや膝蹴りを受けまくりながら、それでも向かっていく前田はやはり尋常ではない」(同) この試合がゴルドー自身の言うような疑似格闘技で、フィニッシュとなった“ハイキックを前田がキャッチしての裏アキレス腱固め”が、両者の事前打ち合わせの通りに行われたものであったとしよう。 しかし、そうした試合にあってもなおガチの蹴りを繰り出すゴルドーと、それを受けてもへこたれない前田のいずれもが、傑出したファイターであることには違いあるまい。そんな前田の過剰なスタイルが、日本の格闘技の礎となったのは前述の通りだ。 またゴルドーも、この後に参戦したUFCの記念すべき第1回大会において、倒れた相手の顔面を容赦なく蹴り上げる過激ぶりを披露。そんなゴルドーを柔術の技術できれいに仕留めたホイス・グレイシー共々、総合格闘技を世間に周知させる上で一役買うことになる。
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スポーツ 2017年08月03日 17時30分
猪木以来の快挙なるか? 中邑真輔、シナとの日米決戦を制しWWE最高峰王座に挑戦!
世界一のプロレス団体、WWEのTVショー『スマックダウン』が米国現地時間8月1日オハイオ州クリーブランドで行われ、元新日本プロレスの中邑真輔がWWE王座挑戦権を賭けてジョン・シナとの日米夢の初対決に挑んだ。 試合は、中邑は挨拶がわりに得意の延髄斬りやけいれん式ストンピングを繰り出し、さらにシナがファイブ・ナックル・シャッフルを決めようと「You can't see me」のポーズをすると、中邑は下から腕十字、さらには三角締めと巧みな関節技を繰り出した。勢いに乗る中邑はキンシャサを狙うも、これをかわされると今度はシナがSTFで中邑を締め上げる。目まぐるしい技の攻防に会場からはどよめきが起こった。 中邑は打撃からのキンシャサをシナに叩き込み、さらに2発目を狙うも、今度はシナが渾身のアティテュード・アジャストメントを決める。これで試合は決まったかに思えたが、なんと中邑はこれをカウント2で返し、さらに追い打ちをかけるシナを今度は中邑が持ち上げてリバースパワースラム、さらに全身をたぎらせたキンシャサを決めて勝負あり。中邑は完璧な3カウントをシナから奪い日米ドリームマッチを制した。シナとの初対決で勝利をもぎ取った中邑は、真夏の祭典『サマースラム』でのWWE王座挑戦権を獲得。 WWE王座戦が行われるPPV『サマースラム』は現地時間8月21日、ニューヨーク州ブルックリン、バークレーセンターで行われる。 日本人ではアントニオ猪木以来38年振りとなるWWE王座獲得へ。猪木は第9代王者と認定されながら、新日本所属だったこともあり、団体間の政治的な理由から取り消された経緯がある。WWEに移籍した中邑はキング・オブ・ストロングスタイルとして真の世界一へ王手をかけた。 ■中邑真輔の試合後コメント 「ついに実現した夢の対決、中邑真輔対ジョン・シナ。ジョン・シナを越えた今、次の夢の対決は『サマースラム』WWEチャンピオンシップ、ジンダー・マハル対中邑真輔。 イヤァオ!」文・構成 / どら増田写真 / c 2017 WWE, Inc. All Rights Reserved
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スポーツ 2017年07月31日 16時00分
プロレス解体新書 ROUND60 〈小橋vs蝶野“魂の名勝負”〉 満天下に示したプロレスの矜恃
2003年5月2日、新日本プロレスの東京ドーム大会は『アルティメットクラッシュ』と名付けられ、総合格闘技色を全面に打ち出して開催された。 そんな中で行われた純プロレスのビッグマッチ、小橋建太vs蝶野正洋は、ガチンコを超えるプロレスの魅力を存分に見せつける名勝負となった。 新日本プロレスの1・4東京ドーム大会において、初めて観客数の発表が5万人を切ったのは2005年のことだった。4万6000人の発表ながら客席には空きが目立ち、当時を知る関係者からは有料入場者の実数が8500人だったとの声もある。新日が“冬の時代”といわれ始めたのも、やはりこの頃だった。 そうした凋落は'01年の総合格闘技戦で、永田裕志がミルコ・クロコップに惨敗したことでもたらされたとする声も多いが、加えてもう一つ大きな低迷の要因があった。いわゆる“土下座外交”である。 90年代の半ば辺りから、従来の地方巡業よりもドーム級の大会場を重視する興行スタイルへとシフトした新日は、その勢いに陰りが見え始めた21世紀に入っても、なおそうした形態に依存していた。 アントニオ猪木が引退し、長州力や藤波辰爾も衰え、'00年には橋本真也が独立。'02年の春には同じ闘魂三銃士の武藤敬司が、全日本プロレスへと移籍した。看板となる選手が次々にいなくなる中で、それでもビッグマッチを開催するためには、どうしても外部に頼らなければならない。 「新日側の都合でビッグネームを招聘するとなれば、試合においては相手の要求を全面的に飲まされることになる。ただでさえスター不足の新日が、さらに外敵に花を持たせるという、負のスパイラルに完全にハマってしまいました」(プロレスライター) この時期の新日で主役を張ったのは、藤田和之や髙山善廣、鈴木みのるなどの外敵軍や、ブロック・レスナー、ボブ・サップといった外国人であり、永田や中西学、棚橋弘至らの生え抜きたちは、その引き立て役に回された。 「これでは新日ファンはまったく面白くない。唯一、スター候補として育てられたのは中邑真輔でしたが、これも総帥たる猪木の意向ひとつでK-1やら総合格闘技やらと使い回され、肝心のプロレスに専念できないという状況。これでは誰を応援していいのかも分からない」(同) そんな中にあって三銃士で唯一、新日に残っていた蝶野正洋も、やはり苦しい立場に置かれていた。 '01年に猪木から現場監督に指名されると、外敵軍との抗争のためにそれまで率いたヒールユニットTEAM2000を解散し、正規軍に合流。'94年G1優勝後のヒールターンから、nWoを経て積み上げてきた歴史を封印することになる。元WWEの女子レスラー、ジョーニー・ローラーとの男女対戦というイロモノ的な試合もこなした。 さらに'02年、東京ドーム大会への三沢光晴参戦から始まった交流を発展させるため、翌年には自らノアへの参戦を果たした。 そうして迎えた'03年5月、東京ドームでの小橋建太戦は、いわば蝶野のプロレス人生を投げ打って実現したといっても過言ではない。ドーム興行成功のため、つまりは会社の儲けのために己を犠牲にして…。 ノアの“絶対王者”といわれた小橋なら、相手にとって不足のないビッグネームではあるが、それは同時に、この試合において“蝶野に勝ち目がない”ことを意味していた。この当時のノアは興行面で安定しており、他団体に頼る必要がなかった。そのトップである小橋が、わざわざ不利になるようなカードに応じるわけがないのである。 しかし、蝶野はそんな中にあって最高の試合を見せた。事前に膝を故障したというのも、負けたときの言い訳的な意味合いがあったかもしれないが、リング上ではそんな様子を感じさせない。 序盤はチョップ主体で攻め立てる小橋に対し、喧嘩キックやSTF、さらには大一番でしか披露しないルー・テーズ直伝の低空高速バックドロップを、危険な角度で繰り出した。 一方、小橋の反撃も容赦なく、ハーフネルソン・スープレックスを4連発。首に古傷を抱える蝶野にとって、文字通り命取りとなる大技だ。セコンドの天山広吉が思わずタオル投入の構えを見せるが、蝶野は必死の形相でこれを制する。 小橋はさらにハーフネルソン2連発から、ショートレンジの剛腕ラリアットを叩き込み、ついに激闘に幕が下ろされた。最初こそは小橋への声援が支配的だったが、蝶野の予想を超えた闘いぶりに、試合後は両者互角のコールが送られることになった。 この大会、他の試合はアルティメットクラッシュと題された格闘技戦で占められており、これが実は“なんちゃって格闘技”ではないガチンコだったのだが、蝶野と小橋はそれにまったく引けを取らない、プロレスの凄味を見せつけた。 しかし、そんな蝶野の孤軍奮闘がありながらも、猪木やフロントの専横は続けられ、新日が冬の時代へと向かう歯車が止まることはなかった…。