そんな中で行われた純プロレスのビッグマッチ、小橋建太vs蝶野正洋は、ガチンコを超えるプロレスの魅力を存分に見せつける名勝負となった。
新日本プロレスの1・4東京ドーム大会において、初めて観客数の発表が5万人を切ったのは2005年のことだった。4万6000人の発表ながら客席には空きが目立ち、当時を知る関係者からは有料入場者の実数が8500人だったとの声もある。新日が“冬の時代”といわれ始めたのも、やはりこの頃だった。
そうした凋落は'01年の総合格闘技戦で、永田裕志がミルコ・クロコップに惨敗したことでもたらされたとする声も多いが、加えてもう一つ大きな低迷の要因があった。いわゆる“土下座外交”である。
90年代の半ば辺りから、従来の地方巡業よりもドーム級の大会場を重視する興行スタイルへとシフトした新日は、その勢いに陰りが見え始めた21世紀に入っても、なおそうした形態に依存していた。
アントニオ猪木が引退し、長州力や藤波辰爾も衰え、'00年には橋本真也が独立。'02年の春には同じ闘魂三銃士の武藤敬司が、全日本プロレスへと移籍した。看板となる選手が次々にいなくなる中で、それでもビッグマッチを開催するためには、どうしても外部に頼らなければならない。
「新日側の都合でビッグネームを招聘するとなれば、試合においては相手の要求を全面的に飲まされることになる。ただでさえスター不足の新日が、さらに外敵に花を持たせるという、負のスパイラルに完全にハマってしまいました」(プロレスライター)
この時期の新日で主役を張ったのは、藤田和之や髙山善廣、鈴木みのるなどの外敵軍や、ブロック・レスナー、ボブ・サップといった外国人であり、永田や中西学、棚橋弘至らの生え抜きたちは、その引き立て役に回された。
「これでは新日ファンはまったく面白くない。唯一、スター候補として育てられたのは中邑真輔でしたが、これも総帥たる猪木の意向ひとつでK-1やら総合格闘技やらと使い回され、肝心のプロレスに専念できないという状況。これでは誰を応援していいのかも分からない」(同)
そんな中にあって三銃士で唯一、新日に残っていた蝶野正洋も、やはり苦しい立場に置かれていた。
'01年に猪木から現場監督に指名されると、外敵軍との抗争のためにそれまで率いたヒールユニットTEAM2000を解散し、正規軍に合流。'94年G1優勝後のヒールターンから、nWoを経て積み上げてきた歴史を封印することになる。元WWEの女子レスラー、ジョーニー・ローラーとの男女対戦というイロモノ的な試合もこなした。
さらに'02年、東京ドーム大会への三沢光晴参戦から始まった交流を発展させるため、翌年には自らノアへの参戦を果たした。
そうして迎えた'03年5月、東京ドームでの小橋建太戦は、いわば蝶野のプロレス人生を投げ打って実現したといっても過言ではない。ドーム興行成功のため、つまりは会社の儲けのために己を犠牲にして…。
ノアの“絶対王者”といわれた小橋なら、相手にとって不足のないビッグネームではあるが、それは同時に、この試合において“蝶野に勝ち目がない”ことを意味していた。この当時のノアは興行面で安定しており、他団体に頼る必要がなかった。そのトップである小橋が、わざわざ不利になるようなカードに応じるわけがないのである。
しかし、蝶野はそんな中にあって最高の試合を見せた。事前に膝を故障したというのも、負けたときの言い訳的な意味合いがあったかもしれないが、リング上ではそんな様子を感じさせない。
序盤はチョップ主体で攻め立てる小橋に対し、喧嘩キックやSTF、さらには大一番でしか披露しないルー・テーズ直伝の低空高速バックドロップを、危険な角度で繰り出した。
一方、小橋の反撃も容赦なく、ハーフネルソン・スープレックスを4連発。首に古傷を抱える蝶野にとって、文字通り命取りとなる大技だ。セコンドの天山広吉が思わずタオル投入の構えを見せるが、蝶野は必死の形相でこれを制する。
小橋はさらにハーフネルソン2連発から、ショートレンジの剛腕ラリアットを叩き込み、ついに激闘に幕が下ろされた。最初こそは小橋への声援が支配的だったが、蝶野の予想を超えた闘いぶりに、試合後は両者互角のコールが送られることになった。
この大会、他の試合はアルティメットクラッシュと題された格闘技戦で占められており、これが実は“なんちゃって格闘技”ではないガチンコだったのだが、蝶野と小橋はそれにまったく引けを取らない、プロレスの凄味を見せつけた。
しかし、そんな蝶野の孤軍奮闘がありながらも、猪木やフロントの専横は続けられ、新日が冬の時代へと向かう歯車が止まることはなかった…。