しかし、彼が死んだ直前の行動は以外に知られていない。彼がどのような経緯で死に至ったかを改めて検証してみたい。
死の前日、尾崎は都内であるイベントに招待されて夫婦で出席した。その後、尾崎夫妻はホテルへと移動をするが、そのとき知人と出会い、妻を一人残し、当時芝浦にあった「OBAR」という酒場で酒を飲んでいたところまでは知られている。その後、尾崎は深夜2時過ぎに酒場を出てタクシーに乗り込んだ。その後民家で発見されるまでの約2時間が定かではない。
噂によると、タクシーの運転手と尾崎が口論になって千住大橋の派出所へ向かい、そこから尾崎は徒歩で家路に就いたとも言われている。
1992年4月25日の午前4時ごろ、彼は足立区の自宅から1キロほど離れた民家の庭先で見つかった。家の人間が全裸の尾崎を発見したのだ。
尾崎は苦しそうに仰向けになり、身体を地面へ付けたまま、身体を地面へこすり付けるような姿勢をとっていたと言う。
民家の住民が救急車と警察に連絡をして、尾崎は最寄の救急病院へ運ばれた。そこで病院側が尾崎の妻に連絡をして、転院して治療することを勧めたが妻は断り、点滴をしただけで尾崎は自宅へ戻った。
自宅での尾崎はソファに寝転がり、たびたび苦しそうに嘔吐をしながら、幻覚と戦っていた。その後、3時間ほどして寝息を立てたので家族が安心していたところ、突然寝息が聞こえなくなり、呼吸も脈も止まってしまったと言う。午前11時頃のことだった。急いで日本医科大学付属病院へ救急車で搬送されるが、既に尾崎は死亡していた。時計の針は12時6分を指していた。
1999年、写真週刊誌『フライデー』8月13日号には、病院で蘇生処置を受ける尾崎の生々しい写真が掲載され、当時の尾崎ファンを驚かせた。写真に写る尾崎豊の顔の右眼は、人の拳によると思われる殴られた痕があり、卵大に腫れ上がっていた。
しかも身体中に傷があり、尾崎は「外傷性クモ膜下出血」とも診断をされていた。当時の警察は、常時20人体制で尾崎豊の事件当日を徹底的に捜査したと言うが、尾崎の行動の全てを探ることは出来なかった。その為に尾崎の死は、街のチーマーに襲われたという都市伝説や、更に尾崎は誰かによって毒殺されたと言う暗殺説まで登場したが、定かではない。
彼の死後2年後に、10万人近い署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、警察側は事件性がなかったとして受理しなかった。
尾崎豊の本当の死因は、尾崎本人しかわからないのではないだろうか。