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天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 大平正芳・志げ子夫人(中)

 大平正芳という政治家は、のちに「鈍牛宰相」と言われたように、派手さとは無縁の男、その本質は、「哲人」「求道者」に近かった。
 したがって、政治家に愛人の一人くらいいても、世間はとやかく言わなかった時代にして、そうした噂は皆無であり、妻・志げ子“一筋”であった。旧大平派担当記者の証言がある。
 「総理のときです。玄関前がざわつき大平が私邸に戻ってくると、大平の“第一声”は『おかあさんは?』というものだった。家人が留守を伝えると、決まって機嫌が悪かった。一方、家にいればいるで、そうかといった感じ、何やらホッとした表情を浮かべるのが常だった」

 二人は、折から日中戦争の火ブタが切られる直前の昭和12年(1937年)4月15日、見合い結婚をした。大平は、旧制高校当時、クリスチャンとしての洗礼を受け、東京商大(現・一橋大学)に進み卒業とともに大蔵省に入った。結婚は、その翌年。
 一方の志げ子は「三木証券」創立者の鈴木三樹之助の二女で、「貞淑有馬の婦人を育成する」がモットーだった松陰女学校を出たばかりであった。大平の見合いは、3回目。前2回のそれは、大平が相手を気に入らなかったことによる。大平の知遇を得ていた古参の政治部記者の、こんな証言が残っている。
 「大平によれば、見合いの席で志げ子さんがお茶を運んできたとき、手がぶるぶる震えていたのを見、これが好印象に残ったから決めたということだった。それにしても、見合いから挙式までわずか1カ月という“スピード婚”で、慎重さ人一倍の『アーウー宰相』などとも言われた大平にしては、なかなか素早いところを見せた。結婚までのデートは、なぜか新宿の伊勢丹デパート家具売り場が多く、大平いわく『ああいうところなら、あまり目立たんだろうと思ったからだ』ということだった。志げ子さんのほうは、口数の少ない誠実な男に映ったようだった」

 晴れての新居は、東京・杉並区内に構えたが、大平は志げ子に最初の給料袋を渡すとき、こう言って新妻を慌てさせたのだった。
 「僕は学生時代、カネがなくて育英資金のお世話になったんだ。毎月、ちゃんと返済しておいてくれ」
 志げ子は、大蔵省1年生の安月給の中から、毎月、定められた日に郵便局へ通い、きちんと払い続けたのであった。ために、生活は楽ではなく、なんとか志げ子の“手腕”で切り抜けたのだった。一方で、当時、大蔵省入省から10年ほど経った大平は、苦学生のためにと大日本育英会(現在の日本育英会の前身)設立に心血を注いだという経緯がある。

 結婚から3カ月後、大平は横浜税務署長に赴任したのだが、その1年後、今度は仙台税務監督局部長としての辞令が出た。このときの仙台へ向けての赴任の日のエピソードがある。
 「その日、折り悪しく京浜地帯の多くは台風による豪雨と洪水に見舞われた。当時、大平は横浜近くの磯子に住んでいたのだが、東京-横浜間の交通も途絶してしまって、これでは決められた日までに着任ができない。一計を案じた大平は、やむなくパンツ一つでトランクを頭にくくりつけ、川の渡しもかくやの格好で増水した六郷川(註・川崎と蒲田の間を流れる)を泳ぎ切って、からくも東京へ出たんです。その際、尻にバイ菌が入ったらしく、仙台着任後まもなく“痔”になり、入院するはめになった」(前出・古参の政治部記者)

 この仙台税務監督局部長には、ドブロク密造の摘発も仕事の一つだったが、ここでは大日本育英会の設立に心血を注いだのと同様の根の優しさを見せている。大平自身が自著『私の履歴書』(日本経済新聞社)の中で、こんな告白をしている。
 「税務署の密造監視班は、未明から起きてその摘発にとりかかるのが常だった。そして、ようやく東の空が明るくなる頃、ドブロクの入ったカメが発見され、ただちに調書がとられて即決の処分が行われる。若者は働かねばならないので、大体、老人がその責任を取るようになっていた。時折、その現場に立ち合った私は、『権力』と『民草』と『被治者』の悲しい関わりについて、何かしら割り切れない、やり場のない気持ちに沈んだものである」

 その後も、昭和19年の東京財務局関税部長時代、戦時中の国民生活に思いを致す大平の姿が浮び上がる。「戦局の一層の悪化に伴う厳しい耐乏生活の中で、一般大衆が一日の仕事が終わったあとビヤホールで一杯飲んで疲れをいやすとか、一合の酒でうさ晴らししてもらう必要があるのではないか」(前出『私の履歴書』)として、ナント都内に300軒の「国民酒場」なるものを作ってしまった“泣かせる男”でもあったのである。
 この頃、大平は大蔵省の先輩でのちに総理となる池田勇人の知遇を受けることになる。やがて政治家への転身、志げ子の新たな“戦い”が始まることになる。
=敬称略=
(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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