ところがその風潮に疑問を呈する声がネット上で散見される。その理由として挙げられているのは「花見は死者を弔う儀式であり、決して不謹慎なものではない」というもの。果たしてこれには根拠があるのだろうかと探ってみると、興味深い本が見つかった。
西岡秀雄『なぜ、日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか?』(PHP研究所/2009年3月刊)である。著者は大正2年生まれで、慶應義塾大学名誉教授や大田区立郷土博物館館長などを務めた方。「サクラ」という花の名前には「サ=サ神の/クラ=座る場所」という意味が込められているというのだ。
「サ神」は漢字が使われるより以前から信仰されていた八百万の神のひとつで、当てはまる漢字がないためカタカナで表記される。「サ神」を「サガミ」と読めば「相模国」を思い出してしまうが、国名の由来は不明とされている。それが忘れられた神の名によるものであれば、書物に残っていなくても不思議ではない。
各地に残る「サ」の音を冠する言葉が沢山あることから、その存在を導き出した。山の神である「サ神」の聖域と人里との境=「サ」カイは柵=「サ」クによって分けられ、田植えの始まる五月=「サ」ツキには「サ神」が坂=「サ」カを降りてくる。
古代には山に咲く=「サ」く花として親しまれてきた桜=「サ」クラの下で、酒=「サ」ケや肴=「サ」カナを捧げる=「サ」サゲル花見は、農作物の豊穣を祈願するとともに、聖域=あの世と人里=この世の境界線上で死者の弔いをする儀式であり、それによって人々に幸=「サ」チや栄=「サ」カエをもたらすものであった。
『遠野物語』などで知られる日本民俗学の大家・柳田國男に師事した早川孝太郎が『農と祭』に書いた「サ神」に関する論考を読んだことが、西岡氏の「サ神」研究のきっかけだとか。早川孝太郎は芥川龍之介や島崎藤村にも称賛された民族学者であり、彼の説が元となれば信頼度も高い。
石原都知事は仏教に関するエッセイ『法華経を生きる』(幻冬舎/1998年刊)を出版している通り仏教徒である。神を祀るのは主に神道だから気に入らない可能性はあるものの、それを政治に反映させてしまえば政教分離に反する。そもそも政(まつりごと)は先人の霊を祀(まつ)る祭り事でもあった。先祖供養は世界中のあらゆる場所で行われてきたものであり、特定の宗教とは関係のない伝統的文化なのである。(工藤伸一)