今やもっともチケットの入手がむずかしい演劇集団の名バイプレイヤー、逆木圭一郎氏に新作『港町純情オセロ』の東京公演のさなか、劇団の軌跡について聞いた。
−− いまや日本一の人気劇団となった新感線ですが、そもそも逆木さんが劇団に入られたきっかけは何だったんですか?
逆木 座長のいのうえひでのり(演出家)とは幼馴染でして。僕が東京で勤めていた映画の小道具を作る会社を辞めたときに、ちょうど大阪で劇団をやっていたいのうえから、今度やる芝居で小道具を作ってくれないかって言われまして、体も空いていることだし…
−− 渡りに船と。
逆木 ええ。で、大阪に行って聞いたら、その芝居はまだ先の公演のだったんですよ(笑)。で、やることも無いので次回公演のチラシ配りをすることにしたら、チラシの出演者のところに、僕の本名(植木圭一郎)と一字違いの逆木圭一郎っていう名前があるんです。「イヤー、僕の名前に似ているねえ」って言ったら、「お前だよ」って(笑)。で、出演することになりまして、それからずっと出演者です(笑)。
−− 東京進出の最初の演目はシアタートップスでの『星の忍者』でした。衣装や照明、全てにおいてクオリティーが高くて、あのちっぽけな劇場から何かが溢れ出るようなお芝居でした。
逆木 うん。溢れていました。機材をトラックから降ろしてみたら、劇場に入りきらなかった(爆笑)。あのとき舞台を仮設で広げたんですが、そうしたらただでさえ狭かった客席が半分ぐらいになっちゃった。
−− あそこは150人も入れない所でしたね。
逆木 それで劇場の支配人から、お客さんを入れないで、君たちはいったい東京まで何をしに来たんだ。って、あきれられちゃってね(笑)。
−− 公演は大成功でした。しかし反発も大きかったですね。あんなもの演劇じゃないっていう。
逆木 それはもう大阪時代から言われていました。今も言われているけれど(笑)。でも、それはずっとそれでいいという姿勢でして。
−− なぜですか?
逆木 いのうえはよく、平仮名の【えんげき】て、言っていますけれど、いわゆる主義主張がどうしたという漢字の【演劇】をやろうとしていないんです。楽しい娯楽としての演劇をやろうと。
−− この頃は皆さん苦労されたんですよね。
逆木 まだ東京へ来る旅費も宿泊費も、劇団からは出ませんでしたからね。
−− どんなところに泊まっていたんですか?
逆木 知り合いの家とか、サウナとか新宿中央公園の築山の中のトンネルとか(爆笑)。
−− やがて人気も上がって池袋でのテント公演(1990年)を迎えます。演目はその後の新感線最大の当たり狂言となります『髑髏城の七人』でした。
逆木 あのころ、ほとんどの芝居が突貫工事でした。
−− なぜですか?
逆木 あのね、この芝居を作るにはこのぐらい時間がかかるというようなことを把握できる人というのがいなかったんですよ。
−− まだプロフェッショナルではなかった?
逆木 全然! いまだにプロフェッショナルか疑わしいところはありますが(笑)。当然ゲネプロ(本番同様に行う最終リハーサル)も何もやれなくて。
−− えっ、何もやらずに?
逆木 やらないです。というのは初日のときまだラストをどうするかが決まっていなかったんです。
−− でも結果的には大成功で、劇場も大きい所へ移っていきます。そこらで劇場すごろくもだいぶ上ってきたなあという意識は?
逆木 全然なかった! 極端な話、帝国劇場でやろうが、日生劇場でやろうが、自分たちがグレードアップしただなんて気分はなかった。
−− それはなぜ?
逆木 やっていることが変わらないから。どこに行こうが新感線の芝居をするだけ。ただ大きい劇場になって楽になったというのはありましたね。スタッフが人力で回していた回り舞台も機械になって。
−− では次は新作の『港町純情オセロ』とシェイクスピアについて伺いたいと思います。ズバリ今回の見所は?
逆木 まずデズデモーナ役の石原さとみさんが可愛い(笑)。それから脚色です。青木豪君の脚色の物凄さに驚きます。
−− これが最後の質問なんですが、劇団設立30年を迎えて次なる意気込みを聞かせてください。
逆木 がっかりさせて申し訳ないんだけれど、ないんじゃないかと思うんですよ(爆笑)。意気込みがなくダラダラとやってきたのが、長く続いた理由じゃないかと思います(笑)。
−− これは愚問でした(笑)。これからも楽しいお芝居を見せてください。今日は本当にありがとうございました。
(取材・文/光益公映)
『港町純情オセロ』
5月15日まで、赤坂ACTシアターにて
次回公演『髑髏城の七人』
大阪公演
2011年8月7日から8月24日、大阪芸芸術劇場メインホールにて
東京公演
2011年9月5日から10月10日、青山劇場にて
客演・小栗旬・早乙女太一・森山未來・小池栄子・他