わたしが同道している若い女性(以下女)は、中野ブロードウェイ奥の薬師アイロードに住んでいるというので近所を案内してもらっている。愚痴を丁寧に聞いてくれるという、女がなじみの酒と肴(さかな)が旨(うま)い木挽が目標だ。
わたしと女は共に手痛い1人の男を亡くしている。男はわたしの旧知の親友で、女には師と仰ぐ上司。思い出話が微妙にずれる。女は過去を話し、わたしは過去へ話しているようだ。
ユダヤ教徒が被(かぶ)るような小皿帽キッパがお似合いのご亭主は、銀座の木挽町生まれであること。木挽の商標登録は九州の酒蔵メーカーが済ませていたので、ひらがなのこびきをラベルにするほかなかったなどという話を一方の耳で聞きながら、片方で女の話を聞いている。トランジスタラジオもずっとしゃべっている。
黒酢豚が頗(すこぶ)るつきの旨さだ。女が、酢豚が黒いってどういうことかと問うので、酢豚の甘酢あんかけで使っている酢が黒酢だろうとわたしなら推察する、と言上する。あんかけの餡の字をついでに教えようとして止(よ)した。忘れていた。
しかし女と、どうも話がかみ合わない。立ち止まって考える、ということをしないのだろうか。
女が絶賛するマーボー春雨が来た。
「辛い!」
「あたりまえだ」
「熱い!」
「昔からそういうことになっている」
「おいしい」
「うん、ほんとだな」
話題がやっとかみ合った。
死んだ男の趣味は、会社がもてあました部下を拾って育てることだったようで、大便の最中に小切手を流した(水に)男とか、高所恐怖症で閉所恐怖症のくせして酔った勢いで観覧車に乗りこみ社員旅行を台無しにした男などをかばって、管理部門から有形無形の被害を蒙(こうむ)っていた。部下から愛されすぎて、会社から疎まれた。
君に十分に迷惑を掛けたであろうこの女は、君の勤務地だった中野に、君をしのぶために引っ越した。それにしても、前後に揺れはじめた君の部下を、わたしははや持て余し気味である。戻って来てなんとかしてくれないか。
予算2500円
東京都中野区中野5-49-1