実際、橋下氏と石原氏がともに政治活動をしていたのは2012年11月から14年7月までのわずか2年弱に過ぎない。
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石原氏は2012年10月に東京都知事を辞職し、国政進出を表明。11月にたちあがれ日本の継承組織として太陽の党を立ち上げるが、同党は間もなく日本維新の会に合流。石原氏は12月の総選挙で比例東京ブロックから出馬し当選する。
石原氏は当初は同党の代表、のちに橋下氏とともに共同代表に就任する。しかし、2014年8月には維新から分党し次世代の党を結成する。この間、2人の足並みが揃っていたとは言い難い。
2012年11月に選挙を控えていた時期に、石原氏は「原発ゼロはめざさない」と発言。しかし、維新の公約には原発ゼロ目標が掲げられており、矛盾が指摘された。これをメディアなどから指摘されると、石原氏は「公約は直させた」「橋下君の個人的意見」といった発言を行ったと報じられている。総選挙を前にしての政党合流がドタバタしていたとは言え、やはり原発問題については議論を詰めるべきだったのは確かだろう。
2013年5月に橋下氏の「戦争時に従軍慰安婦は必要」「沖縄海兵隊司令官に風俗業を活用して欲しいと」といった発言に、石原氏が強く反発。橋下氏に謝罪会見を求めるも、橋下氏は拒否したと伝えられる。このあたりのすれ違いも、戦争を知る石原氏と、戦後生まれの橋下氏の価値観の違いを浮き彫りにするものであったかもしれない。
2人の間には、与党の自民党ではない形での保守再生といった共通の意思があったものと思われるが、その理想を実現するのは難しかったようだ。