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田中角栄「怒涛の戦後史」(9)恩師・草間道之輔(上)

 田中角栄には、生涯「先生」と呼んではばからなかった人物が三人いた。一人は、土建業で大成功、政界入りした直後に師事することになった元首相の幣原喜重郎で、それまで田中には乏しかった「世界観」を開かせてくれた人物である。

 また、一方で幣原は人格者でもあった。この弊原と出会わなかったら、その後の田中という政治家があったかは定かでない。単なる成り上がりの政治家に、終始したかもしれなかった。

 そして二人目が、田中が卒業した新潟県刈羽郡二田村の二田尋常高等小学校の元校長、草間道之輔である。現在、学校は移転しているが、当時は田中の生家の裏山にあった。学校の跡地は、いま「田中角栄記念館」となっている。田中はこの学校に、高等科2年を加えて8年間通い、ここで「終生の恩師」とも呼ぶ草間と出会うのである。

 草間はこの小学校の卒業生でもあり、のちに校長を経て、優れた教育者、人格者として新潟県下で知らぬ者はなかった。当時、学校で一番大切な場所とされていた講堂にある天皇・皇后の御真影の奉安庫には、草間校長の手になる校訓が掲げてあった。校訓は三つ、「至誠の人、真の勇者」を真ん中に、左右に「自彊不息(じきょうやまず)」「去華就実(きょかしゅうじつ)」とあった。それぞれ、まごころを尽くせる人こそ本当の勇者である、常に努力を怠ってはならない、何事も飾らず実直にすべしとの意味となっている。要するに働き者であれと説いたのが、左右の二つの校訓であった。

 のちに田中は自著『私の履歴書』(日本経済新聞社)で、「私という人間のすべては、この三つの校訓に親しんだ8年間に作り上げられたものと思っている」とした。また、郵政大臣として母校を訪ねた際に揮毫を頼まれ、「至誠の人、真の勇者」としたためる田中の姿を「草間先生がじつにうれしそうな顔で見ていた」と懐しそうに触れている。

 田中が初めてその草間を頼ったのは、卒業から10年以上経った頃、戦後第1回目の総選挙に出馬の名乗りを挙げたときであった。時に、田中は応召先の朝鮮で終戦を迎え、帰国して間もなくの26歳であった。

 田中は当初、草間に宛てた私信で、立候補を考えている旨を伝えた。田中は東京で事業に成功したものの新潟での支援基盤は極めて脆弱で、広く県下の教育界に知られる草間の協力を得たいと、ワラにもすがる思いでの吐露であった。返信が来た。要は、代議士を目指すには若すぎる、ために立候補には、自分は反対であるというものだった。

 しかし、一度自ら意を決したらブレないのが、若い頃からの田中の持ち味である。返信から間もなく、今度は「ソウダンシタイ スグキテクダサイ」との電報を打ち、新潟の寄宿先に草間を招き、改めての了解、支援を得るために頭を下げた。草間はそこでも、「君はまだ20代だ。歴戦の強者でも勝つのは難しいのに、飛躍しすぎではないか」と、なおブレーキをかけたものだった。

★「先生、議席を持ちてぇです」

 このとき、田中は草間の目を見ながら、次のように懇請したとされている。
「先生のお話も分かるけど、聞いてください。おれが応召されて満州に行ったとき、生きて還ろうと誓った三人の親友がいたんです。うち、一人はノモンハンで死んでしまった。生きて還ったもう一人の親友が、おれの会社を訪ねてきたとき、亡くなった親友を偲んで二人で誓い合ったんです。『これからの世の中は、おれたち若いもんが出なきゃならん』と。先生、おれは見栄や名誉なんていう浮わついた考えじゃないんだ。親友が死んだのに、自分だけ安泰な生活で満足しているわけにはいかねぇんだ。そのためには、なんとか議席を持ちてぇです(要約)」(『田中角栄の青春』栗原直樹・青志社)

 田中は自分の弁に酔ったように次々と言葉を繰り出し、時に薄っすら涙を浮かべていたとされる。のちに、田中が最も勢いがあった自民党幹事長時代に、ライバル視された福田赳夫(元首相)が「角さんとサシで会うのはなぁ」と半ば尻込みしたのも、田中独特の気迫に押されてしまうという部分が少なくなかった。

 福田同様、あれだけ立候補に反対の草間もまた、田中の気迫に負けたようであった。そして、ついに力を貸すことを約した。

 草間は二田尋常高等小学校以外にも、新潟県下で二校の校長を歴任し、いずれも卒業生、教師の尊敬を集めていた。また、自身が卒業した新潟師範のOB会を主導する立場でもあった。田中にとっては、草間が動いてくれれば、教育人脈という強力な支援態勢ができるということだった。

 昭和21(1946)年1月半ば、なんとか選挙体制の屋台骨も固まり、田中は新潟県柏崎市本町7、戦争で閉鎖していた旧市川百貨店跡に、とてつもない大看板を掲げた。早々の選対本部の設置ということだった。1メートル四方の字で「田中土建工業新潟支店」とペンキの大描きである。付近の人たちが何事かと面喰らったのは、言うまでもなかった。

 戦後初の総選挙の投票日は、その年4月10日であった。進歩党の新人候補、田中角栄の謳い文句は、あの「至誠の人、真の勇者」であった。草間は田中ともども自転車をこぎ、演説会場を回っては、終始、応援弁士を務めてくれたのだった。

 ところが、肝心の田中候補の演説は、のちの「角栄節」とは裏腹に、内容ゼロのうえにドモることたびたびで、さすがの草間も半ばサジを投げかけたのだった。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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