同年のドラフト会議で、高校生ながら1位指名され、ロッテに入団。とにかく、球は速く、まさに剛速球で鳴らし、1年目(88年)から1軍昇格。ただ、コントロールは悪く、カウントを悪くして、ストライクを取りにいった球を打たれるケースが多かった。成績は14試合登板で、2勝5敗1セーブだった。
2年目(89年)は、ほぼリリーフに専念し、33試合に登板し、0勝2敗9セーブ。以後、90年が8勝5敗、91年が3勝8敗、92年が0勝5敗と、なかなか殻を破れなかったが、93年後半に7連勝を含む8勝(7敗)1セーブをマークして、きっかけをつかむ。同年5月3日の西武戦での清原和博との対決では、当時の日本球界最速の158キロを記録した。
それまで、先発、リリーフの併用だったが、翌94年は先発ローテーションに固定され、27試合に登板し、207回1/3を投げ、15勝(10敗)、防御率3.04の好成績を挙げ、7年目で大器の花を咲かせた。同年は最多勝、最多奪三振(239個)の2冠を獲得。初のオールスター戦出場を果たし、ベストナインにも選ばれた。
95年も200投球回(203回)を突破し、11勝(11敗)をマークし、2年連続奪三振王(239個)となり、最優秀防御率(2.53)のタイトルを獲得し、この年も2冠王となって、ベストナインにも選出された。96年は12勝(6敗)で3年連続2ケタ勝利を記録し、防御率はキャリアハイとなる2.40で、2年連続最優秀防御率のタイトルを獲るなど、堂々たるロッテのエースに君臨。その一方、同年には降板司令に怒って、スタンドにグラブと帽子を投げ込むトラブルも起こした。
同年オフ、FA権のない伊良部はメジャー移籍を熱望する。当時はポスティングシステムが確立されておらず、ロッテ球団はパドレスの選手を獲得することを目的に伊良部の保有権を譲渡。ところが、ヤンキース入りを希望していた伊良部側は、これを拒否し、日米を股に掛けた大騒動に発展。最終的には三角トレードの形で、97年5月に伊良部のヤンキース移籍が決まったが、国内では「わがままを通した」とのイメージがぬぐえなかった。
MLBで迎えた1年目の同年7月、伊良部は初登板初先発で勝利投手となった。しかし、この年は13試合登板、5勝4敗、防御率7.09の成績に終わる。98年は5月に月間MVPを受賞するなど、前半戦で大活躍し、13勝(9敗)をマーク。同年、チームはワールドシリーズを制覇したが、伊良部は後半戦不振のため、ポストシーズンで登板することはできなかった。99年も11勝(7敗)を挙げ、2年連続2ケタ勝利。ヤンキースに欠かせないローテーション投手となったものの、同年オフ、エクスポズにトレードされる。
エクスポズでは故障との闘いだった。00年は右ヒザ半月板、右ヒジ遊離軟骨の手術を受けるなど散々。結局、11試合の登板にとどまり、2勝(5敗)しか挙げられず。翌01年は、右ヒジ痛に苦しみ、8月26日には酒の飲み過ぎで意識不明となり、救急搬送される失態を起こした。球団は謹慎処分にした後、伊良部を解雇した。同年はわずか3試合しか登板できず、0勝2敗だった。
02年はレンジャーズとマイナー契約を交わし、開幕メジャー入りを果たす。この年はリリーフに転向し、フル回転。38試合に登板し、3勝8敗16セーブをマークしたが、7月に肺血栓が見つかり、そのままシーズンを終え退団。失意の伊良部の元には、地元・兵庫を本拠地とする阪神の星野仙一監督からラブコールがあり、7年ぶりに日本球界に復帰。先発で13勝(8敗)を挙げ、7年ぶりにオールスター戦に出場するなど活躍し、チームの18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。ところが、翌04年はわずか3試合の登板で0勝2敗、防御率13.11の成績で、オフに戦力外を通告される。
伊良部には、どの球団からもオファーはなく引退を決断。米国に戻って、実業家に転身し、カリフォルニア州ロサンゼルスで、うどん店を開業する。09年には、古傷のヒザに負担がかからない投球フォームを編み出して、5年ぶりの現役復帰を決意。4月に米独立リーグ、ゴールデン・ベースボールリーグのロングビーチ・アマンダに入団。8月には四国・九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団するも、右手首腱鞘炎のため、退団。登板したのは2試合だけだった。独立リーグで投げたものの、MLB、NPBへの復帰はかなわず、2度目の引退となった。
私生活では、08年8月、大阪市のバーでクレジットカードが使えなかったことに腹を立て、店舗を破壊、店長に暴行したとして、現行犯逮捕され、書類送検されたり(不起訴処分)、10年5月にはロサンゼルス郊外で飲酒運転の疑いで逮捕されたりと、お騒がせ続きだった。
そして、11年7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で、首を吊った状態で死亡しているのが発見された。地元警察の捜査では自殺と判断した。享年42歳の若さだった。事業の失敗や、妻子との別居などが自殺の原因との説もあるが、遺書も残されておらず、真相は本人のみぞ知るところ。伊良部は指導者として、日本球界に戻りたいとの願望もあったようだが、それはかなわず。非業の死を遂げた。
生涯成績はNPBで72勝69敗11セーブ、MLBで34勝35敗16セーブと、それほど秀でたものではない。だが、伊良部の剛速球は、その成績以上に強烈なインパクトを残した。
(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)