「信じたくないという思いもあったんでしょう。阪神在籍の4年間、本当にチームに溶け込んでいましたからね」(在阪メディア)
第一報が入ってきた時、当時巨人の選手だった中畑清氏(元DeNA監督)が現役時代の対戦を打ち明けている。投球が顔に向かってきたと思いきや、大きな弧を描いてキャッチャーミットへ――。軌道の大きいカーブでNPB通算45勝44敗(4年/107試合)を挙げた。
しかし、この「軌道の大きなカーブ」の話には“続き”があった。
1989年8月31日の対巨人戦、キーオは、井上真二外野手(53=現巨人三軍監督)の左頭部にぶつけてしまった。当時の井上と言えば、同年5月にスタメン出場のチャンスを掴むと同時に、「2か月弱で11本塁打」と爆発。将来のクリーンアップ候補と期待されていた。頭部への死球は大事には至らなかったが、その後は伸び悩んでしまった。
キーオの死球による後遺症、内角を攻められるとその時の残像が…。心ないメディアがそう伝えていたが、当時を知る関係者がこう反論する。
「避けられるボールだったんです。だけど、避けられなかったんです」
どういう意味かと言うと、キーオのカーブは中畑氏の言葉にもあったように、頭部付近から大きく曲がっていく。井上はギリギリまで、「カーブか否か」を見極めようとし、投げ損じと分かった時はもう手遅れだったのだ。
「キーオは井上を個別に訪ねて謝罪していました。その真摯な態度に巨人選手も敬服していました」(前出・関係者)
キーオは阪神退団後も現役を続けようとしたが、叶わなかった。その後は、キャリアをスタートさせたオークランド・アスレチックスのフロントに入り、05年にはゼネラルマネージャー補佐にまで上り詰めた。阪神時代の同僚である藪恵壱氏のアスレチックス入りにも関わっている話は有名だが、その後は野球界から退いている。
「阪神で一緒にプレーしたセシル・フィルダーが米球界復帰後、メジャーのトップ選手に成長しました。キーオはフィルダーの成功を喜び、日本球界の緻密なプレーや指導の巧さを代弁してくれました。甲子園球場のきめ細やかなグラウンド整備の話もしてくれました」(前出・同)
父のマーティ・キーオ氏も南海ホークスでキャリアを終えた。その縁で幼少期にも日本に滞在している。親日家なのはそのためだろう。メジャーリーグでは、「チームメイト=ファミリー」の意識も強い。日本では、監督、コーチとは上司・部下、チームメイトは同僚と、“会社組織的な雰囲気”がある。どちらが良いという話ではないが、キーオは藪氏の米球界挑戦をサポートしたように、退団後も“日本のファミリー”を大切にしてくれた。僅か4年の在籍でも、虎ファンが「弱い暗黒時代を支えてくれた」と故人の功績を讃えているのは、“家族のために勝つ”の思いがマウンドからも伝わってきたからだろう。合掌。(スポーツライター・飯山満)