鏑木清方は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家。美人画家として「序の舞」などの作品をのこした上村松園とともに「東の清方、西の松園」と称された。東京の神田に生まれ育ち、昭和21年(1946)に鎌倉に移り住む。昭和47年(1972)年に死去するまで鎌倉で過ごした。清方の遺族から、鎌倉市へ、作品・資料とともに土地建物が寄贈された。現在、鏑木清方記念美術館として公開されている。
清方は、16歳の時に、父親が経営する新聞で挿絵を描き始めた。専属の挿絵画家に礼金が払えなくなり、息子の清方がかり出されたようだ。文明開化の世では、数限りない新聞が独自に発行され、日本にジャーナリズムが芽生えようとしていた。当時の挿絵画家は、現在のカメラマンや記者の役割も兼ねていたようだ。相撲があれば観戦して絵を描き、芝居があれば劇場へ足を運んだ。
現在、鏑木清方記念美術館では、2月11日から3月21日まで、収蔵品展「日本画家と挿絵の制作・第1期泉鏡花とのかかわり」を開催している。展示品の中に、「深沙大王(しんじゃだいおう)」という、大人の背丈よりも高い作品がある。絵の中に、裸足の若い男が刀を握りしめ立っている。袖を噛む和服の女が寄り添っている。2人の周りに草木が茂り、はるか向こうでは、烏帽子をかぶった猿や、キツネ、翁らが2人をあざ笑うかのように行進している。
清方が挿絵画家として活躍したころは、絵師と文士は面識が無くとも、作品を通して、お互いの存在を知っていた。清方は泉鏡花の小説の口絵を描き人気を博していく。「深沙大王」も、鏡花の脚本の上演にあたり絵看板として描かれた。しかし、演目が「高野聖」に変更されてしまったため、烏合会展に出展された。収蔵品展では、「深沙大王」の他にも、「孤児院」「一葉女子の墓」「築地明石町(下絵最終稿)」など、記念切手の絵柄になったり、美術や歴史の教科書に登場する作品が、おしげもなく、何点も展示されている。
美術館を出たあとは、山へ向かった。突き当たりに垣根が広がっていた。平屋建ての建物が見える。垣根の道を、人力車が通り過ぎていった。鎌倉では、観光者向けの人力車が人気で、知られざる名所を案内してくれる。人力車が通過したあと、再び辺りが静寂に包まれた。和風の建物は「鎌倉市川喜多映画記念館」。東洋と西洋の和合を意味する「東和商事」を設立し、東宝東和会長などを歴任した川喜多長政と妻かしこの旧邸。山の裾野に作られた景観と調和の取れた佇まいで、敷地内の散歩道は記念館利用者でなくとも楽しむことができる。3月は、高峰秀子・加山雄三主演の映画「乱れる」(成瀬巳喜男監督/1964年/日本)などが上映される。
そのほかにも、鎌倉の脇道には、関東大震災に耐えたわらぶき屋根の「旧大佛次郎(おさらぎじろう)茶亭」がある。山のふもとの洋館を利用した鎌倉文学館には、戦前の鎌倉の模型があり、夏目漱石や川端康成、与謝野晶子、円地文子らが愛した鎌倉の姿をしのぶことができる。(竹内みちまろ)