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プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「ジャイアント馬場」“東洋の巨人”は希代のアスリート

 米国において最も評価の高い日本人レスラーの1人であったジャイアント馬場が、大腸がんの転移による肝不全で亡くなってから早19年が経過した。

 馬場がアメリカにおいてNWA、WWWF、WWAの王座に連続挑戦を果たしたのは、自身2度目の遠征となった1964年(昭和39年)のこと。
 それぞれ王者は、ルー・テーズ、ブルーノ・サンマルチノ、フレッド・ブラッシーといった、いずれ劣らぬ大物ぞろい。当時における世界三大チャンピオンシップであり、各団体がライバル関係にある中で、その垣根を越えてリングに上がったのは極めて異例の“事件”であった。
 分かりやすく例えるならば、大みそかに『紅白歌合戦』の舞台に立つと同時に、『ガキ使』をはじめとした民放各局の裏番組に出演するような事態で、普通ではあり得ないことだった。
 つまり、そんな“非常識”が許されるほどに、アメリカでの馬場人気は高かったわけである。今から50年以上も前のことで、その頃の馬場を生で見たことがあるのは、現在60歳以上の限られたファンであろうか。

 逆に言えば、ほとんどのプロレスファンが、馬場の全盛期を知らないということにもなる。巨体に似合わぬ細い腕、あばら骨の浮いた胸板、スローモーな動きと、効いているのかも分からない16文キック…。
 馬場に対するネガティブイメージは今でも根強く、これはビートたけしの『オールナイトニッポン』における馬場ネタや、関根勤のモノマネの影響も大きいだろう。

 だが、馬場がプロレス界に入る前、巨人軍に在籍した当時の、いわゆる“職業野球”は、今ほどのハイレベルではなかったものの、それでもスポーツエリートの集まりであったことに違いはない。
 そんな中にあって馬場は、高校2年の時点で青田買いのスカウトを受け、入団後も二軍とはいえ3回の最優秀賞を獲得。一軍で先発した唯一の試合でも、5回無失点の好投を見せている。
 「それでいて一軍に定着できなかったのは、実力の問題ではなく、馬場の巨体が観客から見世物的に見られることを、ダンディーで知られる当時の水原茂監督が嫌ったためだとの説もあります。アスリートとしての能力は相当高かったようで、歴代の日本人プロレスラーの中でもナンバーワンなのでは?」(ベテランスポーツ紙記者)

 運動神経抜群のいわゆる“動ける巨人”だったわけで、後世のレスラーを見ても2メートル超の身長でいながら、ドロップキックまで放つ選手はそうそういない。アメリカで人気が出たのも、ただデカい東洋人が珍しいということだけでなく、馬場が上質な試合を繰り広げていたからこそであった。
 そうしてみれば日本プロレス時代に、アントニオ猪木が馬場の上に行けなかったこともうなずけよう。人気や集客力が重視されがちなプロレス界だが、格闘技という性質を含む以上、まったく力量の劣る選手が長く上に立てるはずがないのである。

 しかし、その猪木が全盛を迎える頃に、一方の馬場が“守り”の姿勢にあったことは、今の40〜50代ファンの馬場に対する評価を下げる要因となった。
 「力道山の死後、アメリカへの完全移籍を強く求められた馬場が、高額年俸の提示を蹴って帰国したのは、日本プロレスを守ろうという義理人情の部分がありました。加えて、大きな故障をしたときに、生活の保障がないことへの危惧があったからだともいわれます。巨人軍時代に脳腫瘍を発症していたことで、将来への不安も大きかったのでしょう。それもあって馬場は、全日本プロレス旗揚げ後、自身の闘いよりも団体の安定経営に力を入れるようになりました」(同)

 馬場自身が絶対的エース格でありながら、それだけでは、馬場に何かあったときにはいっぺんに団体が傾いてしまう。
 そのことを力道山死後の日本プロレスで、身に染みて感じていたからこそ、自分が欠けても興行を続けられるようにザ・デストロイヤーやビル・ロビンソンら一流外国人選手を日本陣営に加え、また、ザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの抗争など、外国人対決を目玉の一つとしていった。

 そんな馬場の一歩引いた姿勢は、自分自身が常に最前線で闘う猪木と正反対のものであり、そのためモハメド・アリ戦などで猪木から強烈な刺激を受けたファンからすると、馬場の姿勢は物足りなく映ることにもなった。
 「スタン・ハンセンが全日に移籍して、馬場が互角以上の闘いぶりで抗争を繰り広げたことに、ファンは驚きました。しかし、もともとの身体能力からすれば、まったく不思議ではありません」(同)

 晩年にはその人格や存在感を評価されることが多くなった馬場だが、そもそもが傑出したプロレスラーであったことは、ぜひとも記憶にとどめておきたい。

ジャイアント馬場
生没年:1938年1月23日〜1999年1月31日(61歳没)。新潟県三条市出身。身長208㎝、体重136㎏。得意技:16文キック、32文人間ロケット砲、脳天唐竹割り。

文・脇本深八(元スポーツ紙記者)

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