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闘将死去 星野仙一厳しさの中に愛情・ユーモアがあった男気列伝

 闘将・星野仙一が逝った。70歳だった。先輩のONである王貞治氏(77)、長嶋茂雄氏(81)や野村克也氏(82)が健在なだけに「早すぎる」の声も聞かれた。死因はすい臓がんだった。

 「年末年始は家族でハワイ旅行に行くと話していました」(楽天関係者)
 闘将は'97年に夫人を亡くしている。家族とは、2人の娘とその夫、孫たちを指していて、星野氏は家族が揃う束の間の休暇をいつも楽しみにしていた。
 「年末から体調を崩していたらしく、ハワイ旅行はキャンセル。自宅で2人の娘さんが身の回りの世話をしていて、1月2日に容態が急変し、4日午前5時25分、帰らぬ人となってしまいました」(同)

 監督を務めた中日、阪神、楽天の3球団で闘将はすべて優勝に導いている。'08年北京五輪では日本代表監督も務め、「最後の指揮官任務」となった楽天では、悲願の日本一も経験した。監督通算1181勝は歴代10位。名将と言っていい。
 「星野采配で有名なのはクローザーを作ること。絶対的な救援投手を持ち、継投策で逃げ切るスタイルです。その野球観は今日のプロ野球界にも色濃く残っています。それから外国人投手を見る目が確かでした。補強をやらせたら右に出る者はいません。昨年、楽天がペナントレース中盤まで首位をキープできたのは、エースの則本に並ぶ先発投手として、西武からFA宣言した岸を口説き落としたのが大きい」(ベテラン記者)

 監督・星野はいい意味で「コワイ」と言われてきた。その姿は打倒巨人を公言してきたピッチングスタイルにも表れていたが、こんな逸話も残されている。
 「好プレーをした選手には惜しみなく高級腕時計や貴金属をプレゼントしていました。監督賞というヤツです。監督室には金庫があって、その中に黒真珠やダイヤモンドなどもしまってあった」(中日OB)

 個人後援会のパーティーなどで得た金を軍資金とし、あらかじめ購入しておいたのだ。一般論として、個人後援会で得た金をそのまま懐に入れてしまう監督も当時はいたそうだ。その意味では太っ腹だった。
 「阪神監督に就任した最初のキャンプでした。星野フィーバーで高知県安芸市は大盛況で、阪神の宿舎ホテルにも一般ファンが押し寄せた。星野監督が一番最後に1人で湯船に浸かっていたら、その一般客と出くわしてしまったんです。タオルで前だけ隠して臨時サイン会ですよ。監督付マネージャーとなった平田勝男氏は『オマエんとこの球団はどないなってるんや!?』と怒られていましたが…(笑)」(阪神関係者)

 また、阪神監督就任後、「大阪の気質」を知る努力もしていた。お好み焼きを白飯に乗せて食べる食文化にも挑戦。こういう食べ方をすることは知っていたそうだが、中日時代は「絶対に合わない」と言って拒否していた。しかし、タテジマのユニホームを着た以上、本気で大阪人になろうとしていたのだ。
 「酒は飲めないタチ。その代わり甘い物が大好きで、差し入れの大福なんかをいつも頬張っていました。高血圧で医者に止められていると聞いていましたが、お土産を持ってきてくれた人に気を遣っていたのでしょう。いつも3つ、4つ頬張っていましたよ」(同)

 阪神監督を退いてからは東京での仕事も増えた。当時の闘将の悩みは体重増。「痩せなきゃいかん」と言い、帰りはテレビ局が用意したハイヤーを断って歩いて帰っていたという。その途中でのことだ。
 「渋谷近くで客引きに声を掛けられた、と。“マッサージだと聞いて本当にマッサージだと思って入ったら、凄いところだった”と笑いながら話してくれたこともある。相手を笑わそうとするときは、いつも自虐的な失敗談をネタにしていました」(民放TV局スタッフ)

 昨年12月1日、大阪市内で行われた自身の『野球殿堂入りを祝う会』では、王貞治氏や阪神・金本知憲監督らの球界関係者だけでなく、政財界、芸能界などから約950人が集まった。この席で自身が監督を務めた阪神と楽天の日本シリーズ実現を熱望し、「私が生きている間にやってもらいたい。夢だ」と語った。
 金本監督は苦笑いしながら頷いていたが、「生きているうちに」の言葉には、病魔の進行を自覚する思いがあったのかもしれない。
 「出席者は『痩せたね』と話していました。阪神監督を退いてからのしばらくは『太った』とこぼしていたので、逆に、高血圧などの病気が治まったんだと捉えた出席者もいましたが」(同)
 すでに闘病生活を続けていたが、自分のために集まってくれた人たちを心配させないよう、差し入れ同様、周囲を気遣っていたという。

 闘将を支えていたのは、強い反骨心。'68年ドラフトで巨人に指名されなかった悔しさもあったが、女手一つで育ててくれた母親の本籍が愛知県で、自身も「中日入りは運命だった」とも知人たちに話していたそうだ。その中日ファンを喜ばせる、中日グループが感情移入してくれる手段が、打倒巨人(読売)――。闘将はそれを熟知していたのである。
 闘将が初めて監督となった中日時代からずっとつけた背番号は77。実は、川上哲治氏の野球を尊敬していたからだ。また、ONに対しても野球人として尊敬の念を抱いていた。
 「本当に凄い野球人は勝つだけではなく、尊敬される人。ONは誰からも愛されている」
 ふがいないプレーをした選手には鉄拳制裁もいとわなかった。納得のいかない判定には審判に猛抗議し、乱闘になれば、真っ先にベンチを飛び出した。その反面、裏方のスタッフにも配慮し、選手の夫人だけでなく、裏方の家族にも誕生日の贈り物を続けてきた。
 闘将・星野は男気に溢れていた。

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