ただ、秀吉の遭難については文禄元年(1592年)に肥前(佐賀県)の名護屋城から大坂へ帰る途中の出来事であることと、当時14歳の毛利秀元が小舟を漕ぎ寄せて太閤を助けたこと、その功績によって秀元が秀吉より名刀「厚藤四郎」を賜ったことがわかっているものの、その他の細部については謎が多い。例えば、秀吉御座船の水手頭(かこがしら、船長)である「明石与次兵衛」は、遭難に激高した太閤が自ら名刀「備前三郎国宗」で手打ちにしようとしたとか、そこから刀には水手切りの異名を奉られたなどの伝承も残されているのだが、明石与次兵衛は毛利秀元の懇願によって処刑ではなく切腹を申し渡された、あるいは沙汰を待つことなく自害(入水)したなど諸説あって真相は判然としない。
ともあれ、地元彦島の人々は与次兵衛の最後を悼んで手厚く葬った他、墓所に植えた松を「明石松」と呼んだとされている。また慶長年間(1600年ごろ)には、細川忠興が配下の不運を哀れんで篠瀬に明石与次兵衛の塔を建てさせ、以後は「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
ただ、その与次兵衛には信憑性が薄いものの「毛利はいまだ野心を捨てておらず、長門の岸へ寄せるのは危ういこと。そのため、あえて篠瀬の沖へ船を回したのでございます」と弁明したものの、明石与次兵衛とは仮の名で正体は秀吉に切腹させられた小田原北条家の重臣「松田尾張守(松田憲秀)」の遺子であると讒言を受け、結局は打ち首になったという伝承がある。とは言え、明石与次兵衛は名が示すように播磨の明石を拠点としていた海賊衆で、秀吉配下の水軍武将として小田原攻めにも参加しており(!)、遭難当時は後に豊前小倉藩主となる細川家の組下だったとされる。
つまり、歴史的には全く根拠も整合性もない、単なる伝承のひとつにすぎないが、それだけに「なぜ、そのような伝承が生まれ、語り継がれてきたのか」が、大きな謎として浮上する。ただ、この伝承には秀吉御座船に関する「神話」も含まれており、また下関の彦島周辺でのみ語られてきたというのも、謎を解くひとつの鍵となろう。
次回は、彦島における秀吉遭難の伝承を踏まえつつ、明石与次兵衛の塔と「与次兵衛ヶ瀬」のその後を解説する。(続く)