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巌流島と名刀「厚藤四郎」の不思議な縁(3)

 関門海峡の巌流島は、その名の由来ともなった剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で知られており、近年でも格闘技の聖地としてアントニオ猪木対マサ斎藤の一戦をはじめとする、幾つもの名勝負が繰り広げられた。だが、まだ巌流島と呼ばれる以前、正式な地名の船島と呼ばれていた時代、太閤秀吉が島に隣接する岩礁(篠瀬、転じて死の瀬とも)で遭難するという事件があった。そして、遭難した太閤を救助したのが、当時14歳の毛利秀元とされる。ほんの数か月前に自分が「秀」の字を授けたばかりの若武者が、小舟に乗って岩場へ進んでくる姿(これにまつわる異説があるので、次回に紹介する)に感激した秀吉は、助け出された浜辺で秀元へ名刀「厚藤四郎」を授けたと言う。

 この「厚藤四郎」は東京国立博物館が所蔵する国宝で、最近はゲームの影響もあってか「あつくん」あるいは「藤四郎」などと親しまれている短刀だ。ただ「厚藤四郎」に関しては関白秀次から秀吉へ渡った経緯に関しては血なまぐさい異伝もあり、謎めいた名刀でもある。

 ともあれ、日本各地の名刀を記録した台帳である江戸期の享保名物帳には、秀吉から秀元へ渡った経緯が概ね以下のように記載されている。

 太閤が肥前の名護屋城より帰る際に赤間が関(下関)にて乗船が座礁した時、わずか14歳の秀元が小舟を漕ぎ寄せて太閤を助けたことから、海岸の砂浜にて秀元に「厚藤四郎」を賜ったとの物語が伝わっている。

 さておき、あくまでも名刀の記録であるため、享保名物帳に秀吉遭難の詳細は記載されていない。ただ、水手切りの異名を持つ「備前三郎国宗」の解説には、秀吉が水手の頭である「明石与次兵衛」をこの刀で手打ちにしようとしたことから、水手切りの異名がついたとの記述がある。ここでようやく巌流島(船島)と篠瀬、明石与次兵衛、そして名刀のすべてがそろい、伝説の謎を解き明かす準備が整ったと言えよう。

 次回は秀吉遭難の異説を中心に、物語としてどのような尾ひれがついていったのかを解説する。

(続く)

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