さておき、その巌流島はまだ船島と呼ばれていた頃にも、とある歴史的な大事件の舞台となっていた。それは文禄元年(1592年)の秀吉遭難で、太閤が九死に一生を得たとされる事件だった。
ところが、秀吉遭難事件には細部の異なる様々な伝承があり、現在でもなお解き明かされざる謎を秘めているのだ。まず、下関周辺に伝わる伝承を検討する前に、それらの基本形とも言える江戸時代後期の医者「橘南谿」が記した『西遊記』の記述を現代風に紹介しよう。
「関門海峡の中ほど、わずかに水上へ出ている長い岩山があった。その名は与次兵衛瀬と呼ばれ、付近を航行する船舶から恐れられていた。なぜこのような名がついたのかと地元で尋ねたら『太閤秀吉公が朝鮮征伐の際に肥前の名護屋まで御出陣された時、この付近を船で通ろうとしたら潮流に押し流され、御座船がこの瀬に座礁しました。御座船はたちまち大破し、沈没しつつありましたが、周辺より救助の船が駆けつけ、太閤殿下は無事に助けられました。その時に御座船の船頭だった与次兵衛は、事故の責任を感じて即時にこの瀬へ登り切腹したそうです。そのことから、この瀬は与次兵衛瀬と名付けられました』太閤の御座船ですらも流されたほど、潮の流れは強いのだ」 *橘南谿・西遊記:板本正編巻之五第八章(写本巻之十第十一章)与次兵衛瀬より。
とまぁ、これが伝承の基本形というか、最もシンプルな話である。このバージョンでは前回に解説したような秀吉が渡海した理由(母である大政所が危篤との報を受けたため)や、救助したのが毛利秀元の船であったこと、以前は篠瀬(あるいは死の瀬)と呼ばれていたこと、戸ノ上おろしと呼ばれる突風、そして何より秀吉の御座船や名刀「厚藤四郎」にまつわる部分が存在しない。
もちろん、これはあくまでも橘南谿が海峡を渡る際に船頭から聞いた話であり、また激しい潮流に揺られて恐怖や船酔いに苦しみながら聞かされたらしきことなどを考えると、漏れがあったとしても不思議ではない(いちおう、与次兵衛瀬の下手に巌流島が見えたとの記述はある)。ただ、橘南谿の記述は客観的な紀行文というより、異国での見聞を面白おかしく膨らませた「奇譚」というものであった。その方向性を考えると、いくつかの美味しいネタを気軽にスルーしたとは思いにくく、やはり船頭の話には含まれていなかった可能性が高い。
では、秀吉遭難をもうひとつの方向、名刀「厚藤四郎」の伝承から、改めて検討してみよう。 (続く)