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坂本龍馬が挑んだ「蝦夷の埋蔵金伝説」

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画像はイメージです。

 土佐・高知が生んだ坂本龍馬の墓は京都の霊山護国神社に、直系の子孫の墓は北海道の浦臼町に存在する。龍馬の故郷に系譜は残っていないことになるが、これらには日本史の超A級タブーとされている2つのミステリーが隠されている。

 その1つが「蝦夷の埋蔵金伝説」だ。
 龍馬は生涯に2度、脱藩浪士の蝦夷地(現在の北海道)移住開発計画を口にしている。そのどちらも、かなり唐突だった印象がある。時期的には京都にあふれる浪士たちへ、弾圧が始まる直前ということで共通する。1度目は神戸海軍学校で塾頭をつとめていた時。実際に部下2名を現地視察に送り出している。
 2度目は幕府の長州征伐が薩長の密約により失敗に終わろうとしていた時で、徳川慶喜が15代将軍に内定したころでもある。それは、龍馬暗殺の1年前でもあった。
 龍馬の蝦夷地移住開発計画はかなりシリアスで、薩摩藩の五代才助を担ぎ薩摩藩の保証でロシア商人から船まで購入している。この龍馬の移住計画を薩摩藩が協力するという構図は、今でいう派遣切り失業者への再就職支援に当たるか。当時は、薩摩藩に悪い印象を抱いている人が圧倒的に多かった。薩摩を公然と批判していたのは、困窮の極みにあった長州派の志士たち。

 薩摩藩は彼らに職業を与える可能性が期待できた蝦夷地移住開発に協力することで、世論の風向きを変えようという目論見があった。いわば、人気回復策の一環でもあった。薩摩藩の五代才助とは、長崎在住のイギリス人商人・グラバーの愛弟子でありグラバーが手塩にかけて育てたフリーメイソンだった。フリーメイソン的思考からすれば、人気回復のために使う労力とお金ほど無駄なモノはない。
 他のメイソンリーに、それが知られたら「愚か者」と揶揄(やゆ)される。食い詰めた志士のために、五代がロビイスト活動を行うはずがなかった。
 五代が坂本の保証人になるよう薩摩藩を説得した背景には、薩摩藩の人気回復策というより、もっと泥くさい理由があったのだ。
 当時、江戸幕府の隠し財産や戦国武将の埋蔵金のうわさは各地に点在していた。各藩のトップ官僚たちは、どんな小さなうわさでも真剣に耳を傾けていた。
 「幕府が隠し財産を使えば、情勢はすぐにひっくり返る」「倒幕派が埋蔵金を奪えば維新回天に大きく貢献するだろう」
 埋蔵金の行方は、「幕府につくか、倒幕派に入るか」と悩んでいた諸藩にとって、大きな判断材料にもなりえたのだ。
 そうした埋蔵金、お宝伝説にたびたび登場するのが未開の大地である蝦夷。当時からミステリアスゾーンとして話題に事欠かない人気スポットでもあった。
 蝦夷を直轄する松前藩では砂金が採取されたことから、カルフォルニアドリームならぬ「蝦夷地ドリーム」に拍車がかかり、手付かずの金脈、金鉱が多数眠っていると信じられていたのだ。
 (以下、次週に続く)

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