上の写真が、それ。神社の案内板の左側、社務所のガラス窓の真ん中にざんばら髪の落ち武者が写り込んでいるのが分かるだろうか。撮影者によると撮影時、周囲には誰もいなかったという。また、これまで心霊現象などの報告がまったくあげられていない神聖な場所である。それゆえか、現れた落ち武者に強い興味を覚える。
名古屋の豊国神社というと、豊臣秀吉が誕生したとされる名古屋市中村区中村町にある。設立されたのは明治18年。豊国神社は前記したように、豊臣秀吉を祭神として祭った神社である。徳川幕府樹立の際、過去の遺恨を残さぬように一度、徹底的に破壊されている。
しかし、神社が破壊されたとしても、豊臣秀吉の霊が消え失せるわけではない。むしろ霊が怨念へと姿を変え、徳川家が祟(たた)られたという噂もある。その怨霊が今でも残っているのかもしれないが、写真に写りこんでいたのはざんばら髪の落ち武者。
豊臣秀吉は、1598年8月18日に大阪城で病死。落ち武者が豊臣秀吉自身ではないことが分かる。豊国神社の東隣には、加藤清正を祀(まつ)る妙行寺が建っている。加藤清正は豊臣秀吉の「子飼い」の一人であり、幼少より豊臣秀吉に仕えていた武将である。1583年に起きた「賤ヶ岳の戦い」で功績を残し、「七本槍」の一人に数えられる。
関ヶ原の合戦では徳川家康率いる東軍に付き、戦後に肥後一国を与えられる。しかし、清正も豊臣秀吉と同じく病死である。ざんばら髪の落ち武者にはならない。では、一体何者が豊国神社に現れたのであろうか。
豊臣秀吉の家臣に長束正家という者がいる。初めは織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えたが、後に秀吉の奉公衆に抜擢され、豊臣家直参の家臣となる。非常に優秀な計算能力を見込まれて、財政や蔵入地の管理、さらに太閤検地を行うのに尽力した。1595年には近江水口5万石を与えられ、五奉行の一人となる。
秀吉の死後、1600年に起こった「関ヶ原の合戦」では西軍に与し、石田三成らと共に毛利輝元を擁立して挙兵する。しかし、関ヶ原の合戦では毛利秀元や吉川広家らと共に南宮山に布陣し、両名の妨害によって戦わずして敗走。水口に戻るも、追手である池田輝政の弟、長吉に城を包囲される。正家は篭城の構えを見せるが、家臣の多くが逃げ出してしまい、抵抗の手段もなく弟の直吉と共に自刃した。それが1600年11月8日のことであった。
この写真が撮影されたのは、11月8日。なんともおもしろい偶然である。もしかすると、長束正家は死した後も豊臣秀吉を慕い、彼を捜し求めて生地に現れ出たのかもしれない。彼ではないとしても、ざんばら髪の落ち武者である。敗戦の士に間違いはないだろう。
豊臣秀吉の生地である豊国神社には、秀吉を慕い続ける侍が今も参拝に訪れているのであろう。