とりあえず、猿払の人々は吹雪の中を浜辺まで出向き、同時に稚内などへ救援を要請したが、夜明けとともに彼らが目にした光景は、恐るべきものだった。浜鬼志別の沖合1500メートルほどに位置するトド岩(海馬島)付近に、おそらくはソ連船が座礁し、横倒の船体をさらしていた。船腹には多くの生存者が身を寄せあって、海岸へ救助を求めている。とはいえ、救援船は激しい風浪に阻まれて接近できず、本格的な救助活動が始まったのは翌13日朝の事だった。
猿払の人々は続々と漂着する遺体を夜を徹して収容しつつ、救助活動を見守った。横倒しの船腹に避難していた生存者も、午後には全員が救助船へ移乗し、ひとまず安堵の空気が流れた。
救出された乗組員などから、座礁した船は予想通りソビエト籍で、船名が「インディギルカ号」であることも判明した。また、船長のニコライ・ラプシンは船上から最後に救助船へ移乗したが、その際に「船内に生存者はいない」と救助隊へ告げたため、救出活動は打ち切られたのである。さらに、ラプシン船長は上陸した稚内で「乗客は漁期を終えてカムチャツカから帰還する漁夫ら1100名で、生存者は全員救助されている。特に女性と子供は全員が救助されている」という趣旨の談話を発表し、周囲の人々を安堵させた。
ところが、船長らが救助された翌々日の15日朝になって、遺体の収容にあたっていた浜鬼志別青年団から、不気味な報告が寄せられた。
まだ生存者がおり、船内に取り残されているらしいと。
(続く)