「ソバ屋で憩う -悦楽の名店ガイド101-」の著者、杉浦日向子氏は漫画家にして、江戸風俗研究家。小柄でかわいい江戸文化の伝道者は、いつも着物姿で登場し、その少し照れたような物言いで記憶されている。しかし、氏にも腹の据えかねることはあったとみえて、本のまえがきの調子は激烈である。
「ソバ好きの、ちょいとばかし生意気なこどもは、いますぐ、この本を閉じなさい。(中略)デートや接待に、使える薀蓄(うんちく)はないかと、データ収集のつもりの上昇志向のあなた。この本は期待に添えません。さようなら」
その「こども」が石松にいて往生した。目の前で引いてくれる刺し身は豚ハツ、牛ハツ、牛レバ、そしてボイルされた子袋。新鮮無比。風味絶佳。滋養満点。焼き物も言わずもがなで、チレとミノのタレ焼きは悶絶もの。この店のたった7つの椅子の争奪戦が、中野ブロードウェイの路地裏で日夜繰り広げられている。木曜と日曜が休み。刺身は仕込みが可能な月水金のみ。開店は7時だが、いつも満席。椅子取りゲームは過酷である。
表壁に、開け閉(た)てできる小窓がある。ここからご亭主は、ごめん、ちょっと分からない、んーん、待ってて、という4酒類の状況説明用語を、中を窺(うかが)う待ち客に伝えつづける。入店の丸秘テクは18時15分からの断続的電話予約攻撃。これあるのみ。
石松には今後も顔を出したい。しかし「こども」がいたらわたしは帰る。随分、大人になったものだと自画自賛して、次の客に椅子を譲って退去。
予算2500円
東京都中野区中野5-50-9