「日大時代の体育の授業で100メートルを走ったら10秒8のタイムを出した。それで人より足が速いと気づいた。それもバスケットシューズで走って、陸上用のスパイクを履いた陸上部員に勝っていた」と述懐している。島根県松江市の松江日大高校(現・立正大学淞南高校)へサッカー留学し、新設されたサッカー部へ入部した。
「主将兼監督で高校に入学したが、部員はサッカーのサの字も知らないものが多かったが、それを束ね島根県では3位になった」
その後、日大に進学。サッカー部に所属しながら夜は居酒屋でバイトをしていたという頑張屋な面もあった。93年の天皇杯では、当時大学史上最強といわれた大岩剛(鹿島)、望月重良(元・横浜FC)、藤田俊哉(ロアッソ熊本)を擁する筑波大戦で、5人抜きのゴールを含む2得点を上げ、Jリーグの各チームから注目された。
「大学に留まってJリーグ入りしても自分の選手生命は限られる」と思い、岡野は大学を中退して浦和レッズに入団した。
浦和レッズには94年から01年8月まで在籍、その後01年9月から03年までヴィッセル神戸、そして04年から08年は再び浦和レッズに在籍した。ここで戦力外通告を受けたが、岡野は現役続行を希望して香港リーグ1部のTSWペガサスに移籍、今年の6月までプレーして退団した。
まだまだ岡野の現役は続いており、現在はJFLのガイナーレ鳥取に所属してピッチに立ち続けている。
◎ジョホールバルの歓喜とは
97年11月16日にマレーシアのジョホールバルで日本代表が、翌98年開催のW杯フランス大会のアジア第3代表決定戦でイランと戦い勝利を収めた試合。これで本戦初出場となった。この時の決勝ゴールを決めたのが岡野だった。
試合は、日本の先制で始まったが、後半に入ってイランの反撃で、一時は1点リードされた。その後、後半31分に城のヘディングシュートで2対2の同点になり延長戦に突入。
岡野は延長の前半戦から北沢に代わって出場した。何度も中田からのパスを受け相手GKとの1対1という場面があったが、決定打が打てず、後半戦へ突入した。
後半戦も一進一退の攻防は続いた。13分、呂比須が奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前でシュート、相手GKがそのボールを弾いた瞬間、岡野が走り込んできてスライディングしながら右足でゴールにねじ込んだ。