少年漫画の王道作品としての『NARUTO』の特徴は、命の重さを大切にしていることである。一般にバトル中心のアクション漫画では死が軽く扱われがちである。人があっさりと殺されても、何事もなかったように物語は展開する。これに対して『NARUTO』では、猿飛アスマや自来也のような重要なキャラクターが作中で死亡し、その死がキャラクターに大きな影響を与えている。
そして『NARUTO』の死の重みは主人公側だけでなく、敵キャラクターにも向けられている。第54巻ではマイト・ガイと干柿鬼鮫が戦う。自身の里で大名殺しなどの重罪を繰り返して抜け忍となった冷酷な鬼鮫が、追い詰められた後にとった行動は、意外なものであった。回想シーンに登場するイタチの以下の台詞が印象的である。
「どんな奴でも最期になってみるまで、自分がどんな人間かなんてのは分からないものだ」
一般的にアクション漫画では、味方キャラクターと比べて敵キャラクターの命は軽い。味方はなかなか死なず、致命傷を負っても回復する。これに対し、敵は後で味方になるような人気キャラクターを除き、倒されたら終わりである。敵のボスが負けた敵キャラクターを「失敗者は不要」として抹殺してしまうケースも少なくない。敵キャラクターは使い捨ての存在である。
しかし、『NARUTO』では敵キャラクターも、かけがえのない存在として扱う描写がある。第44巻では敵であるゼツとマダラが以下の会話をしている。
「しかしここまで来るのにメンバーがこれほどやられるとはな」
「どっかしら問題はあったが、みんな己の意思で貢献してくれた。デイダラ、サソリ、飛段、角都、彼らなくしてここまで進展はなかった」
ゼツとマダラは死んでいったメンバーを哀悼している訳ではないが、彼らの存在を評価し、その死を損失と捉えている。敵味方を問わず、作者のキャラクターへの深い愛情や思い入れを感じさせる。
一方で最近の物語では命の軽さも見られる。長門は外道輪廻天生の術で、自ら殺戮した木の葉の忍達を大量に甦らせた。また、薬師カブトは穢土転生によって、過去に死亡したキャラクターの魂を甦らせた。物語では忍連合軍と暁の間で第四次忍界大戦が勃発する。死の描き方がどうなっていくかも見所である。
(林田力)