野口は昨年、独立リーグの四国アイランドリーグplusの三重スリーアローズでプレーしたが、チームが経営難のため解散。NPBの合同トライアウトを受験したが、どの球団からもオファーはなかった。
ルーキーズは野球を志しながらも、中卒や高校中退などで野球を断念した者に門戸を開き、野球をやりながら高卒資格取得を援助する目的で10年12月に設立された。社会人野球を統括する日本野球連盟に加盟し、都市対抗野球出場を目指している。監督は00年に沖縄県立那覇高を初の夏の甲子園に導いた池村英樹氏。
野口は92年ドラフト3位で中日に入団。4年目の96年にノーヒットノーランを達成したが、伸び悩みが続いた。98年にようやく開花し、初の2ケタ(14勝9敗)をマ−クし、最優秀防御率(2.34)のタイトルを獲得。翌99年には自己最多の19勝(7敗)を挙げリーグ優勝に貢献、セ・リーグMVPを受賞した。3度目の2ケタ勝利(12勝9敗)を記録した01年には、最多奪三振(187個)のタイトルも獲得した。
しかし、04年に就任した落合博満監督(当時)の信頼が得られず、05年オフにFA権を行使して巨人に移籍。ところが、巨人での3年間は惨たんたるもので、1年目(06年)はわずか1試合の登板。07年はリリーフで31試合に投げ、2年ぶりの勝利投手となったが、これが巨人での唯一の勝ち星。08年は1軍登板がなく、オフに戦力外通告を受けた。09年2月に米メジャーのブルージェイズとマイナー契約で合意したかに伝えられたが、メディカルチェックで左ヒジに異常が見られたため、契約は破棄された。2年のブランクを経て、昨年は独立リーグでユニフォームを着ていた。通算281試合登板、81勝79敗2セーブ、防御率3.69。
多くのタイトルを獲った割りには、成績にムラがあり浮き沈みが激しい選手だった野口。ルーキーズという特殊なチーム環境のなかで、指導者としての才能を発揮できるかどうか注目されるところだ。
(落合一郎)