その『日米レスリングサミット』(東京ドーム)におけるメインイベントで、世界的スーパースターに成長したハルク・ホーガンと対峙したのは、かつての盟友スタン・ハンセンであった。
スタン・ハンセンとハルク・ホーガンのシングル初対決は、'81年5月10日、新日本プロレスの『第4回MSGシリーズ』公式リーグ戦の中で行われている。
人気、強さともにピカイチだった看板外国人のハンセンと、そのタッグパートナーで新進気鋭のホーガンによる盟友対決。試合は激しい肉弾戦となり、最後は場外でホーガンの椅子攻撃をかわしたハンセンが、ラリアットを叩き込み、リングアウト勝ちを収めている。
期待に違わぬ熱戦に観衆から拍手喝采が送られる中、2人はリング上で健闘を讃え合うように固く握手を交わしてみせた。
この試合は後楽園ホール大会のセミファイナルで、テレビ放映もなかったため、映像としては観客席からファンが撮影した不鮮明なものが残っているだけ。同シリーズはタイガー・ジェット・シンが初めてリーグ参戦したものの、一方では出場予定だったアンドレ・ザ・ジャイアントが来日直前にキラー・カーンとの試合で足を骨折し、不参加となるアクシデントもあった。
そんな中で、他の機会にはまず実現しないハンセンとホーガンの一戦が、中規模会場でのノーテレビマッチとされたのは、やや不自然な印象も受ける。
「実のところ、新日からWWFへの配慮があったのでは?」(プロレス記者)
この頃、ホーガンはWWFにおいてボブ・バックランドの持つヘビー級王座へのトップコンテンダー(最有力の挑戦者)に上り詰め、アンドレとも真っ向勝負できる次期エース候補と目されていた。
「一説によると、ホーガンには新日から、外国人エースのハンセンよりも高額のファイトマネーが支払われていたとも囁かれていました」(同)
勝敗自体は主催する新日の裁量のこととはいえ、WWF側からすれば将来のスター選手であるホーガンの敗戦を大々的に扱われることを快く思わず、何かしらの注文を付けた可能性もありそうだ。
そんな初対決から9年の年を経て、両者の再戦が実現する。
WWFと全日、新日の東京ドーム合同興行『日米レスリングサミット』のメインイベント。当初のメインは、ホーガンのWWFヘビー級王座にテリー・ゴディが挑戦するタイトル戦とされたが、直前の『レッスルマニア6』でホーガンはアルティメット・ウォリアーに敗れ、王座から陥落してしまった。
それを不服としたゴディが対戦を拒否したため、代役にハンセンが立ったというのが表向きの発表であったが、現実としてはチケットの売れ行き不振によって、全日側からハンセンに頼んでカード変更したといわれている。
9年前とは違い世界的トップレスラーとなったホーガン。アメリカでは9万人もの観衆を集めた実績もあり('87年『レッスルマニア3』アンドレ戦)、WWE側からすれば東京ドームぐらいであれば誰が相手でもフルハウスにできるとの自信もあったろうが、日本のファンからはソッポを向かれてしまったわけである。
「もしゴディが本当に対戦をキャンセルしたならば、全日マット永久追放も免れ得ない。しかし、実際には直後の6月、ドームのメインから降ろしたことに対するお詫びなのか、ゴディは三冠王者にまでなっています。WWFとのカード編成交渉にあたった全日にしても、どうせホーガンの独り舞台になるのに、そんなところへトップ選手は出せないとの意向があって、最初は二番手扱いだったゴディを立てたのでは」(同)
興行成功のためのカード変更が吉と出て、当日は5万人超の観衆を集めることとなったが、かつて新日時代の後輩にあたるホーガンのジョバー(やられ役)を務めることとなったハンセンの胸中は、いかばかりであったろうか。
「そこはハンセンもプロフェッショナル。試合序盤こそはホーガンがグラウンドやバックドロップなど、アメリカでは見せない日本流の攻めで主導権を握ったものの、場外戦となってからは、いつもながらのラフファイト。ド迫力のタックルでホーガンを吹き飛ばすなど、熱のこもった闘いを見せました。大会場向けの大きな動きが目立ったことや、ハンセンの突進をビッグブーツで迎撃して、クローズライン(肘の曲がりがアックスボンバーではない)で3カウントを奪ったフィニッシュが唐突だったことから、評価を下げる向きもあるようですが…」(同)
試合後はホーガン定番のマッスル・パフォーマンスを優先するために9年前のような握手はなし。かつて勝利した試合を念頭に「勝ち逃げは嫌いなんだ」とのコメントを残したのは、ハンセンのせめてもの意地であったろうか。