世界最高峰の王者を相手に、3本勝負のうち1本も許すことなく60分間を闘い抜いたことは、若獅子・猪木にとって金字塔といえる一戦となった。
ただドリー側から見たときに、これは必ずしもベストマッチというわけではない。
「王者時代のドリーの戦績を見ると、時間切れ引き分けが相当数あることが分かります。実際、この翌日に行われたジャイアント馬場とのタイトル戦も時間切れで、翌年の猪木との再戦も同様の結果に終わっています」(プロレスライター)
つまり猪木とのフルタイムドローは、ドリーにしてみればあくまでも数多くこなした防衛戦の中の一つにすぎないのである。また、引き分けが多いといっても、これは決め手を欠いていたからではない。
同じベビーフェイスの元王者であるルー・テーズの場合(タイトル変遷はテーズ→ジン・キニスキー→ドリーの順)、その強さが世界的に知れ渡っており、挑戦者は3本勝負に2-1で敗れたとしても、1本取っただけで上出来となる。
しかし、27歳にして王者となった新鋭のドリーが相手となると、日本でいえば馬場や猪木のようなご当地エースたちは、2-1の敗戦では面白くない。
「NWAの権威を保ちつつ、そうした相手に花を持たせるために、どうしても引き分けが多くなったというわけです」(同)
もちろん猪木戦における、立っても寝てもよどみなく繰り広げられた技の攻防は、素晴らしいものに違いない。
ただし、引き分けという結果だけをもって“王者と互角”とするのは必ずしも正確ではなく、ドリーやNWA本部の狙い通りになっただけという面が多少なりともあったのだ。
よってドリーの特筆すべき点は、年間300試合が当たり前とされた当時の過密スケジュールの中で、王者として60分の試合を何度もこなしてきた豊富なスタミナと、世界各地のスター選手たちと互いに理想的な関係を築いてきた試合巧者ぶりであろう。
「猪木戦でのフルタイムドローも、実のところは馬場に次ぐ日本陣営2番手格の猪木に1本取らせることを、ドリーがよしとしなかったのかもしれません。しかし、そんな空気を一切感じさせることなく“名勝負”に仕立て上げ、同様のスタイルで4年3カ月にわたって王座を守り続けたドリーは、やはり歴代でも指折りの名王者だったといえるでしょう」(同)
ドリー以降でNWA王者を長期間務めたハリー・レイスやリック・フレアーが、反則やリングアウトでお茶を濁す試合が多かったことを思えば、いかにドリーが特別な存在であったか分かるだろう。
余談ながら劇画版『タイガーマスク』でタイガー最後の相手を務めたのも、当時の“最強王者”ドリーであった(タイガーのコブラツイストを逃れるため、レフェリーに手を出しての反則負け)。
全日本プロレスにレギュラー参戦するようになってからのドリーは、やんちゃな実弟・テリーの人気が高まるにつれて、その保護者的な役割を担うことになった。アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークらの反則にキレて暴れる弟を陰から支える賢兄。そんな姿を見るにつけ、面白味の薄い正統派と感じていたファンもきっと多いだろう。
しかし、ドリーの本領はそんな一面だけで語られるものではない。全盛期のブルーザー・ブロディとインターナショナル・ヘビー級王座をめぐる抗争を繰り広げたのは、ドリーがすでに選手としての峠を越えた40歳以降のことであった。
そのときには、ドリー救出のために乱入した実の息子(素人の大学生)が、ブロディの必殺技キングコング・ニードロップを受けて大量吐血するという、当時としてはかなり斬新なアングルまで仕組んでいる。
「息子をリングに上げるなどは『普通に闘ったのでは面白くない』というようなもので、ブッカーも務めていたドリーに対して、全日側からそんな提案はできるわけがない。よって息子の敵討ちのためドリーが大暴走し、反則負けでブロディにタイトル移動というのは、ドリー自身の発案であったと考えられます」(同)
この流れから見えてくるのは“ドリーの発想の大胆さ”であり、ベテランになってもなお一騎打ちでやすやすと負けることを拒むプライドの高さではないか。
2008年にいったん日本での引退試合を行いながら、喜寿を迎えた今もなお現役を続けている(日本での直近の試合は2014年=73歳)。
そんなところを見ても、やはり一時代を築いたこのレジェンドレスラーは、並の常識で測れない特別な存在なのである。
ドリー・ファンク・ジュニア
1941年2月3日、アメリカ合衆国インディアナ州出身。身長190cm、体重115kg。得意技/スピニング・トーホールド、エルボー・スマッシュ。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)