今回の動画で槙原氏は、視聴者から寄せられた複数の質問に回答する形でトークを展開。その中で話題となったのは、「現役生活最後の2年間は抑えの方に回っていたが、正直先発にこだわりはあったのか?」という質問を受けて語った当時の苦悩だった。
巨人(1982-2001)一筋で現役生活を送り「463登板・159勝128敗56セーブ・防御率3.19」といった通算成績を残した槙原氏は、1998年シーズン途中に先発から抑えに配置転換されている。槙原氏によると、長嶋茂雄監督(当時)が槙原氏、斎藤雅樹氏、桑田真澄氏、ガルベスの4先発から槙原氏を抑えに回すことを決め、投手コーチを介する形で配置転換を伝えてきたという。
ただ、槙原氏は「(それまで)150いくつ勝ってたので、先発を続けていれば200勝も見えるわけですよ。だから考えましたよ」と、名球会入会条件でもある通算200勝達成が絶望的となるため最初は抑え転向を渋ったとのこと。また、「若い時は結構セーブとか挙げた(1997年までに通算6セーブ)けど、その時は(球に)力があったから(打者に)ガンガン行けた。けど、(現役)後半になってスピードもなくなってきた」と、抑えとしての適性にも欠けているのではとの思いもあったという。
しかし、その一方で槙原氏は1993年オフにFA宣言した際に直接残留を説得してくれた長嶋監督に恩義を感じていたといい、理由は触れていないが「俺がもし断ったらチームがおかしくなる」という懸念も抱いていたという。そのため、悩んだ末に「俺が我慢すればいいか」と渋々配置転換を受け入れたと語っていた。
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今回の動画を受け、ネット上には「当時はよく受け入れたなと思ったがやっぱり本当は嫌だったのか」、「あの配置転換は可哀想だった、首脳陣のミスを押し付けられた感もあった」、「結局抑えでは微妙だったから、本人もチームも幸せになってないのがまた悲しい」といった反応が多数寄せられている。
「槙原氏が抑えに配置転換されたのは当時プロ17年目・34歳だった1998年途中からですが、首脳陣はそれまでに何度かセーブを挙げていた経験や、17年間で12回100奪三振以上をマークした奪三振能力の高さを買って白羽の矢を立てたといわれています、ただ、当時のチームは1993年の石毛博史(30セーブ)を最後に30はおろか20セーブ以上を記録した投手がゼロと長らく抑え不在に苦しんでいました。そのため、槙原氏の配置転換は首脳陣が抑えを育てることを放棄した結果という見方もされています」(野球ライター)
抑えに転向した1998年から現役ラストの2001年までの成績は、「103登板・10勝8敗50セーブ・防御率3.66」と安定感に欠けた槙原氏。もしかするとモチベーションの低さも成績に表れているのかもしれない。
文 / 柴田雅人
記事内の引用について
槙原寛己氏の公式ユーチューブチャンネルより
https://www.youtube.com/channel/UCU77bY7q28jGPYlDn089gfg