坂本、大城共に「感染・回復からかなりの時間が経過しているとみられ、周囲に感染させるリスクは低いと思われる」と専門家から判断を受け、その後のPCR検査では陰性だったため開幕再延期などの大事には至らなかったこの一件。今から約30年前のこの時期には、この件の衝撃を上回るほどの出来事が起こっている。
1988年6月7日、日本球界に激震が走った。1984年から近鉄でプレーしていた当時34歳の助っ人打者・デービスが、厚生省近畿地区麻薬取締官事務所神戸分室に大麻取締法違反で逮捕されたからだ。
当時の報道によると、同日午前8時半ごろ10人の取締官がデービスの自宅に踏み込むと、末端価格で約70万円分の大麻樹脂と大麻吸引のためのパイプ3本が見つかったため大麻所持の疑いでの逮捕に至ったとのこと。一方、デービスは取り調べに対し「友人から傷に効く薬と言われた。大麻とは知らなかった」と否認はしたが、詳細は語らず球団の通訳や弁護士を呼ぶよう要求し続けていたという。
デービスは1984年から1987年の4シーズンで計110本塁打をマークした強打者で、1988年シーズンもそれまでに「42試合・.303・7本・22打点・46安打」といった成績を残していたバリバリの主力打者。当時はまだネットがそこまで発達していない時代だったが、デービス逮捕の一報は新聞やテレビなどを通じてプロ野球ファンの間に瞬時に駆け巡ったといわれている。
もちろん、当時近鉄の指揮を執っていた仰木彬監督のショック・怒りも大きかったようで、同日に行われた対ロッテ戦の後にはデービス関連の質問をぶつける報道陣に終始声を荒げていたという。
プロ野球史上初となる現役選手の現行犯逮捕を重く見た近鉄側は、逮捕から一夜明けた同月8日にデービスの解雇を決定した。さらに、同月27日にデービスが「解雇により社会的制裁を受けている」として神戸地検から起訴猶予処分を受け釈放されると、球団は翌28日にデービスを日本球界でのプレーが不可能となる「不適格選手」に指定。実質的な永久追放処分を受けたデービスは母国アメリカに帰国し、そのまま現役を引退した。
デービスの失態で近鉄が大ダメージを受けたというこの一件だが、実は近鉄側にも落ち度があったのではといわれている。1972年から1982年にかけてMLBやマイナーでプレーしたデービスは、1985年にMLBの複数選手が絡んだ麻薬売買事件が取りざたされた際に疑惑のある選手の1人として名が挙げられていたが、近鉄は既に主力として活躍していたこともあり詳細を調べていなかった。そのため、当時しっかりと調査を行っていれば、この一件を未然に防ぐことができたのではとの見方はある。
なお、予期せぬ事態で主砲を失った近鉄はデービスを不適格選手としたのと同日に、中日の二軍でくすぶっていたブライアントを金銭トレードで獲得。すると、このブライアントが1995年まで8年間在籍して「773試合・.261・259本・641打点・778安打」といった数字を残し、本塁打王3回(1989,1993-1994)、打点王1回(1993)、リーグMVP1回(1989)とタイルも複数獲得。苦肉の策で獲得した代役助っ人が、前任助っ人を大きく上回る活躍を見せるという“怪我の功名”につながっている。
球界では1993年の江夏豊(元広島他)、2016年の清原和博(元巨人他)といったOBが薬物絡みで逮捕された事例はあるが、現役選手が薬物で逮捕された事例は現在までデービスのみ。当時大きな衝撃を与えた前代未聞の逮捕劇は、その後のブライアントの活躍も含め今もファンの間で語り継がれている。
文 / 柴田雅人