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【記憶に残るプロ野球選手】第11回・“野球界の一発屋”1年で燃え尽きた剛速球投手・与田剛

 お笑いの世界では、“一発屋”と呼ばれる芸人が数多く存在するが、野球界でも、“一発屋”といえるような選手がいる。その代表的な選手が、剛速球で鳴らした与田剛(49)ではなかろうか。ここでいう一発屋”とは、悪い意味ではなく、それだけブレイクした時のインパクトが強かったとの意味である。

 千葉・木更津中央高校を経て、亜細亜大学に進学した与田は、故障がちで大学ではふるわず。NTT東京入りして、頭角を現すと、1989年のドラフト1位で指名され、中日ドラゴンズに入団。デビュー戦は90年4月7日の横浜大洋との開幕戦。同点の場面の延長11回表無死一、三塁の絶体絶命のピンチでリリーフ登板した与田は、2つの三振を含め、無失点に抑えて鮮烈なデビューを飾った。

 そりゃもう与田の球は速かった! その後、新人ながら、クローザーとして起用された与田は、6月には月間MVPを獲得。オールスター戦にもファン投票で選ばれた。8月15日の広島戦では、当時日本最速となる157キロを記録した。後半戦になっても、与田の勢いは衰えず。シーズンを通して、50試合に登板(救援は48試合)。88回1/3を投げ、4勝5敗31セーブ、防御率3.26をマークした。同年、与田は新人王、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、最高の年となった。この年にマークした新人での8戦連続セーブは当時の日本記録。今季、亜細亜大の後輩でもある山崎康晃(DeNA)が、この記録を塗り替えたが、25年間、誰も破れなかった偉大な勲章だった。

 だが、登板過多の影響から、2年目(91年)は29試合の登板で、0勝3敗2セーブと不振だった。3年目(92年)は41試合に登板し、2勝5敗23セーブの成績を収めて、復活の兆しを見せた。ところが、4年目(93年)に右ヒジを痛め、わずか15試合の登板(1勝3敗3セーブ)に終わると、与田の辛い故障との闘いが始まる。

 右ヒジの痛みはなかなか癒えることはなく、94年は7試合、95年は5試合投げたのみ。96年にはルーキーイヤーに監督だった星野仙一が、5年ぶりに監督復帰。与田は1軍での登板が1度もないまま、シーズン途中に、ギャオスこと内藤尚行との交換トレードでロッテに放出される。移籍後、米2Aのメンフィス・チックスに野球留学したが、同年、97年と1軍登板がないまま、ロッテから自由契約となる。

 98年は日本ハムにテスト入団したが、キャンプ中に右ヒジを痛め、同年4月、遊離軟骨除去手術を受ける。その影響で、この年も登板できず。翌99年も2軍暮らしが続いたが、10月のシーズン最終戦で4年ぶりに1軍登板し、1回を投げたが、オフに戦力外となる。

 あきらめきれない与田は、阪神にテスト入団し、野村克也監督(当時)から期待もかけられたが、同年も故障のため、1軍での登板機会はなく、オフに引退を決断した。プロ通算11年で残した成績は、148試合登板、8勝19敗59セーブ、防御率4.58。つまり、生涯登板の3分の1を1年目に投げたことになる。トレードされた96年以降、5年間で1軍登板は1試合だけだった。

 引退後は、NHKの野球解説者となり、09年4月から2年間、NHK「サンデースポーツ」のMCを務めた。WBCでは、09年の第2回大会、13年の第3回大会で、ともに日本代表の投手コーチに招へいされた。01年から、社会人野球のクラブチーム、サウザンリーフ市原の投手コーチを務めているが、まだNPBでの指導歴はない。故障で苦しんだ与田だけに、故障者の気持ちはよく分かるだろう。それだけに、1度はNPBでコーチングするチャンスを、どこかのチームが与えてほしいものだ。

 私生活では、ダンディなルックスで、モテ男。92年には、当時TBSの人気女子アナだった木場弘子アナと結婚している。まさに、ケガとの闘いの日々だった与田。それでも、ルーキーイヤーのインパクトは今なお鮮烈で、与田もまたレジェンドのひとりであることに違いはない。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

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