社会
-
社会 2011年01月31日 15時00分
最近社会問題になっている“クレジットカード現金化”について(2)
先回、最近社会問題になっているクレジットカード現金化の商法について書きました。 この商法にはキャッシュバック付商品販売、金券買取、空売り、買取などが存在します。 このような商法がなぜ、出てきたのでしょうか? 最大の理由は昨年6月に完全施工された改正資金業法にあります。新貸金業法では総量規制がされ、貸金業者で借りられる額がこれまでより少なくなりました。また、専業主婦が借金する場合、配偶者の承諾が必要になったり、総じて審査が厳しくなりました。それとともに、上限金利が下げられました。 これにより、どういうことが起きたというと、今まで多重債務があっても、貸金業者独自の判断で新たな借り入れができて、しのげたのができなくなりました。借りられる額は年収の3分の1までと決められてしまったからです。多重債務者はおおむね、返済するために新たな借り入れをする自転車操業に陥っていますので、新たな借り入れができなくなると困ります。もはや、ヤミ金にでも手を出すしかないのです。 そこで現れたのが、カード現金化業者です。総量規制のため貸金業者ではもう借りることができず、カード会社のキャッシング枠もいっぱいになっている人の受け皿となったわけです。キャッシュバック付商品販売業者は貸金業者ではなく、表向きはあくまで物品販売業者です。従って貸金業者としての登録も不要。クレジットカード会社との取引が可能になれば、即開業できるわけです。 カード現金化業者のほとんどが元貸金業者でしょう。今や大手の消費者金融会社が窮地に陥っている状況ですから、中小の貸金業者は生きていけなくなりました。なかなか貸付もできず、その上儲け(金利)も減ったとなると、食いっぱぐれてしまいます。そこで、カード現金化業者に転業したわけです。 ご承知のように、クレジットカードにはキャッシング枠とショッピング枠があります。通常、ショッピング枠の額が大きいですね。キャッシング枠がいっぱいになっていても、カード現金化はショッピング枠を利用しますから何の問題もありません。あくまで、“販売”ですから、貸金業者にある審査は不要。無職であっても、ショッピング枠に空きさえあれば簡単に利用できます。そこが、カード現金化業者を安易に利用してしまう理由です。 資金業から転業した業者にとっても、多大なメリットがあります。これまでは客の返済管理をしなければならず、貸し倒れのリスクもありました。ですが、この商法では業者はカード会社から入金があった時点で、業務は完了。債務はカード会社にありますから、焦げ付いたら、リスクを負うのは業者ではなくカード会社ということになります。 金券買取業者に至っては、客から買い取った金券をショップに売って換金するだけですから、カード会社と取引を始める必要もなく、誰でも即開業できます。ですから、ヤミ金が転業する場合も多いでしょう。 カード現金化業者の商法では、客側は実質的には法外な金利を払わされることになりますので、通常に金を借りるよりリスクが高いです。利用に際しては、十分な注意が必要です。後で泣きを見ることにもなりかねません。(ジャーナリスト/落合一郎)
-
社会 2011年01月31日 13時30分
愛知県西三河地方の伝説 「白瀬轟中尉終焉の地」
明治43(1910)年11月28日、日本南極探検隊「白瀬隊」は東京芝浦を出港して、明治45(1912)年1 月27日に南極大陸の「南緯80度05分、西経156度の地点」に到達し、その地を「大和雪原」と命名した。明治45(1912)年6月20日、58000kmの航海の後、一人の死傷者を出すこと無く全員が元気に芝浦に帰港した。「白瀬隊」の隊長・白瀬轟(しらせ のぶ)中尉(1861〜1946)は日本人で初めて南極大陸を探検した偉業を成し遂げた。昭和21(1946)年9月4日、白瀬轟中尉は愛知県挙母町(現在の豊田市神明町2丁目)で、不帰の人となった。現在、この地には「白瀬中尉終焉の地」の碑が建っている。 白瀬轟は文久元(1861)年6月13日に秋田県金浦町の400年以上の歴史ある浄蓮寺の住職である白瀬道造・マキエ夫妻の長男として生まれた。19歳の時、北極探検をする意思を立て身心を鍛えようと陸軍日比谷教導団(下士官養成校)騎兵科に入学した。卒業後、仙台鎮台に配属され、輜重兵中尉となった。明治26(1893)年、32才で郡司成忠の千島探検に参加し寒地の専守島で、日本人として初めて越冬した。その後、明治43年まで宮城県、北海道庁に奉職した。 1909年にアメリカの探検家ベアリーが北極点に到達してしまったため、南極探検の計画を進めた。白瀬轟は大熊重信の後援会長就任し、朝日新聞社や地元の秋田魁新報社を通じて、全国からの義捐金に支えられ、機帆船「開南丸」(204トン)を入手した。 白瀬轟が51才の時、明治43(1910)年11月28日、白瀬轟を隊長とした日本南極探検隊は東京芝浦を出港した。明治45(1912)年1月27日に南極大陸の「南緯80度05分、西経156度」の地点」に到達し、明治45(1912)年6月20日、「白瀬隊」全員が無事に日本に帰港した。しかし、「白瀬隊」は装備の問題で南極点には到達できなかったが、その勇気と英知は全世界から称賛されたという。(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
-
社会 2011年01月31日 12時00分
東京23区路上喫煙事情 喫煙者に厳しい新宿区
世の流れは完全に禁煙化。公共の場所は次々に禁煙となり、喫煙者は肩身の狭い思いをせざるを得なくなった。 東京23区を例に挙げると、基本的に路上喫煙は禁止。豊島区も路上喫煙禁止を条例化することを決め、これで江戸川区を除くすべての区で条例ができた。 この流れはもはや止めようがなく、喫煙者にとって、切実なのは喫煙所の確保。最も深刻なのは駅及び、その周辺だろう。今や首都圏近郊の駅では、JR新幹線駅構内を除き全面禁煙。駅でタバコを吸うことは許されない。そんななか、タバコを我慢して長い時間電車で移動して、目的地に着いたならば、せめてそこでは吸わせてほしいというのが喫煙者の願いだろう。駅周辺に喫煙所を設置するかどうかは各区の判断。分煙に理解がある区は駅周辺に喫煙所を設けているが、喫煙者に厳しい区はそれすらない。 たとえば、新宿区。人がたくさん集まる地域との背景もあるのだろうが、新宿区内の駅周辺には喫煙所がほとんどない。おまけに路上喫煙を取り締まるパトロール隊まで出動している。そうかと思えば、歌舞伎町では客引きが平気で路上でタバコをスパスパやっている。ちゃんとマナーを守っている喫煙者としては、やるせない光景だ。むろん、新宿区以外にも路上喫煙に厳しい区もある。 違反した場合の罰則だが、各区さまざま。目黒区のように3万円以下の過料を取ると規定している区もあれば、罰則がない区もいくつかある。実は新宿区は厳しい反面、罰則がない。だが、喫煙者にとっては罰則のあるなしではなく、その権利も理解してほしいというのがホンネだろう。たとえば、北区では2000円以下の罰則がある。その代わり、路上喫煙禁止指定地区とされている赤羽駅や王子駅周辺には、喫煙所を設置し、喫煙者の権利も守っているやさしい区だ。 喫煙は飲酒同様、20歳以上なら法律で認められている行為。大切なのは喫煙者、非喫煙者がお互いの立場を理解し、どう共存していくかではないだろうか? それが喫煙者の願いにように思えてならない。(ジャーナリスト/落合一郎)
-
-
社会 2011年01月29日 17時00分
最近社会問題になっている“クレジットカード現金化”について(1)
最近、クレジットカード現金化という言葉をよく聞きます。外に看板を掲げたり、ホームページを作って堂々と営業している業者も多いです。これを利用して、痛い目にあったという人が後を絶たず、社会問題になっています。ここでは、その商法についてまとめてみたいと思います。 クレジットカード現金化には大きく分けて2種類あるようです。1つがキャッシュバック付商品販売商法、もう1つが金券買取商法です。 まず、キャッシュバック付商品販売商法についてです。これは二束三文の商品を高値で客にカード決済で販売し、多額のキャッシュバックをするシステムです。対面販売の方法を取っている業者もありますが、通信販売の体裁を取っている業者も多々あります。たとえば原価100円のCDを10万円で購入させ、客に85%の8万5000円をキャッシュバックしたとします。カードの支払日はすぐには到来しませんので、客は当座現金を手にできます。差額の1万5000円が実質的な金利となります。カード会社の販売店へのマージンは通常5%といわれていますので、業者はカード会社から95%の9万5000円の入金があり、10%の1万円の利益を得ることになります。 仮に1カ月後にカードの支払日が来たとします。1回払いにすれば、通常金利はかかりません。客側にすれば、「1回払いだから金利はかからない」と思いがちですが、これは大間違い。わずか1カ月で実質1万5000円の金利を取られるわけですから、月利15%。年利に直すと180%に相当します。分割払いにしたら、さらにカード会社の金利がかかります。カードの支払日が来て、大変なことに気付くわけですが、あくまでも業者とは商品を購入しただけの関係。債務はカード会社側にありますから、業者には文句の付けようがありません。 果たして、これは合法なのでしょうか? 「不当景品類及び不当表示防止法」(以下、景表法)では、景品は取引総額の10%以下と規定されています。ですが、ほとんどの業者は、この販売方法は景表法の「もれなく型」に該当し、キャッシュバックは景品の例外に該当するため、取引総額の10%以上を提供しても合法と主張しています。返品したくとも、業者は商品、サービスの性質上、クーリングオフは不可と謳っています。 これについては、グレーというしかありません。そもそも、二束三文の商品を高値で売ること自体が問題ですが、客側はあくまで「金を借りた」との認識で、商品を購入したとの認識が薄いため、どこに苦情をいったらいいか分からず、表に出づらいのです。 次に金券買取商法ですが、たとえば新幹線の回数券10万円分を客にカードで購入させます。それを業者は85%で買い取り、客に8万5000円を渡します。業者はそれを、95%で金券ショップに売ったとして10%の利益を得ることになります。なかには、金券ショップ自体が、この商法をやっている場合があります。それだと、金券を買いに来た客に98%で売ったとすれば、業者は13%の利益が出ます。 各カード会社は換金目的のカード利用を規約で禁止していているようです。これはバレたら規約違反になるでしょう。処罰されるのは業者ではなく、あくまで客です。冷静に考えれば、これは業者をはさまず、個人で金券ショップに売れば、95%の9万5000円が入ります。早急に金が必要で冷静さを欠くと、つい利用してしまうのでしょう。ただ、個人で金券ショップに売っても規約違反になるのでしょうから、こういったことは奨励しかねます。 他に、客に自店でカード決済で販売した商品を、販売価格より下回る額で業者が買い取る空売り商法。あるいは、金券のケースと同様に、客にカードで商品(例:パソコン)を買わせ、それを業者が買い取る買取商法などがあるようです。 いずれも、合法なのか違法なのか、グレーな商法です。 次回はなぜ、このような商法が生まれ、それを利用する客がいるのかにふれてみたいと思います。(ジャーナリスト/落合一郎)
-
社会 2011年01月29日 12時30分
身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)
僕が子供の頃に、人を噛んで殺処分された犬のゴローや、事故死するなどしていなくなった猫たち。こうして思い出してみると、可哀想なことをしたと思う。決して虐待していたわけではない。けれどもペットを飼っていることそれ自体が、まるで虐待であるかのようなことまでいう人もいる。しかし実際に何もしてやれないからには、飼っているかどうかに関わらず、誰もが身勝手な人間の一員に過ぎないだろう。 殺処分に当たる保健所の職員は、何もしてくれない人たちの尻ぬぐいをしているのであって、飼い主だけを責めたところで状況は変わらない。ましてや「愛犬チロの敵打ち」と称し、元厚生事務次官らを殺害した小泉毅被告のように、行政を憎むのはお門違いだ。 全国で殺処分されるイヌやネコは、1年間で30万匹前後にも及ぶそうである。うち3割が犬で、7割が猫。ここ10年で半減してはいるが、減っているのは犬ばかりで、猫は横ばい。8割が生まれて間もない子猫だそうである。事故や病気や飢えで死んでいく野良猫が不憫で、去勢や避妊手術をボランティアで行っている人もいる。自分で飼えればいいのだが、それにも限界がある。 手術を受けさせるのも人間のエゴに見えるかもしれないが、少なくとも既に生まれている命が天寿を全うできるだけでもマシだろう。殺処分数が4年連続で全国ワースト1位だった福岡県の動物愛護センターでは、昨年8月から去勢や不妊手術を無償で行うようにしたそうである。 もし国家が殺処分せずに全ての犬猫を飼うとしたら、どうなるだろう。100匹の猫を飼う社長令嬢なる人がテレビ出演し「月100万円かかる」と言っていたことがある。1匹当たり1万円ということになるが、さらに3割程度にまで抑えたとしても、10年で300万匹なら、毎年1,200億円。国家予算が90兆円として750分の1。多いと見るか少ないと見るか、難しいところだ。 身勝手な飼い主は身勝手ゆえに、どんなに飼うなと言われても飼っては捨てるだろうし、何らかの理由で飼い主の下を離れ、そのまま処分されることもある。動物は自由に生きられるのが理想かもしれない。しかし野性の熊でさえ里に降りてくるこのご時世。人間と共生しながら代を重ねてきた彼らが、野性環境で問題なく生きていけるかは疑問に思えてならない。 だからこそ僕らには責任がある。もはや誰が悪いという話ではなく、これは人類全体の罪なのだ。自分だけは悪くないなんて、言い逃れることはできない。誰もが等しく罪を背負って生きていくべきなのである。できれば罪なき彼らの世話に一生を捧げながら!(工藤伸一)
-
-
社会 2011年01月28日 18時00分
愛知県西三河地方の伝説「引馬野爾」
愛知県知立市山町を通る旧東海道の松並木に「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」という万葉歌碑が立っている。この辺りの地名は引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。 大宝2(702)年、持統天皇は三河行幸を行った。『続日本紀』によれば、その帰朝の行程は三河国から尾張国へは旧東海道を行く陸路をとっている。その際、「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」と、長忌寸奥麻呂がこの捧呈歌を詠んだとされている。 また、知立市にある牛田町から山町の間を『ひくま』と呼び、牛田町にある西教寺は、山号を『牽馬山』(ひくまさん)といい、山町には現在でも南引馬、北引馬の地名が残っている。昔から三河の地は良馬の産地で、毎年、初夏の頃になると知立市で馬市が開かれるのが習わしで、設楽の山地で育った馬が、『ひくまの原』の大草原に集められていたという。 引馬野という場所は、この他に愛知県豊川市御津町の引馬神社説と静岡県浜松説があるが、昭和28年9月、当時の知立町長・加藤玉堂氏は知立引馬説を強く主張してこの万葉歌碑建立した。 知立市にある旧東海道の松並木は、慶長9(1604)年、江戸幕府が諸国に対し、五街道に一里塚と並木を設置することを命じたもので、その当時、幅7m、約500mにわたり、約170本の松が植えられていた。知立市の街道には側道があるのが特徴で、この地で行われていた馬市の馬を繋ぐためのものであった。(写真:「引馬野爾」愛知県知立市山町)(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
-
社会 2011年01月28日 17時00分
身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(1)
今西乃子・著/浜田一男・写真『犬たちをおくる日』(金の星社/2009年刊/税込1,365円)の紹介記事をネットで読んだ。飼い主が連れてきたり外で捕獲されるなどして貰い手もないまま殺処分されるイヌやネコの姿と、動物愛護センター職員の仕事ぶりや胸の内を伝えるノンフィクション本だそうである。 その紹介記事中にも出てくる「身勝手な飼い主」という言い回しは、ペット問題を語る文章で必ずと言っていいほど良く見かけるもの。動物の命を軽視する風潮を非難する言葉だ。僕自身も憤りを感じる一人だが、それでもこのフレーズを目にするたび、ペットにまつわる悲しい記憶がよみがえり、激しく苦悶してしまうのである。 幼い頃から実家で一緒に育った飼い犬のゴローとは、幼なじみ同様に暮らしてきた。けれども犬の成長は早く、僕が中学に入る頃には、人間でいえば60歳。番犬として家の前の犬小屋に繋がれていたが、ある冬の日に近所の子供たちから、雪玉を投げつけるなどしてイジメられた。僕より学年が下の悪ガキどもの仕業である。叱りつけたらすぐに逃げて行ったものの、その時にはもう手遅れで。 ゴローはすっかり人間不信に陥ってしまい、家族以外の人間が近づくと猛烈に吠えたてるようになった。それ以降「猛犬注意」と触れこんでは、慣れない人が近づかぬよう注意してきた。ところがある日、妹がエサをやろうとしている時に知り合いが訪ねてきて、妹が「危ないからダメだ」と止めても「大丈夫」といって聞かずに近付き、腕を噛まれてしまった。 完治までに日数を要する大怪我となり、父は責任をとってゴローを殺処分すると言いだした。「知らない人を噛んだのは、番犬としての役目を果たしただけなんだ。どうして殺さないといけないの?」泣いて懇願しても「いったん人の血の味を覚えたイヌは、癖になってまた噛みつく」として譲らない。数日後、学校から帰ると犬小屋にゴローの姿はなかった。それから何日もの間、愛犬のことを思って泣いた。 当時、我が家ではネコも飼っていた。ゴローもそうだったがペットショップで購入したのではなく、増えすぎて飼えなくなった知人から貰い受けたのだ。しかし僕ら家族の住む社宅が老朽化のため取り壊されるとこととなり、引越し先はペットを飼うことが禁じられていた。そこでさらに貰い手を探したものの、見つからなかった。 3匹のうち1匹だけ貰ってくれるはずの友人の親が「やはりダメだ」というので自宅に連れ帰ったところ、身の危険を感じてパニックになったのか、どこかへ消えてしまった。翌朝、車に轢かれているのを僕が見つけ、父に手伝ってもらい埋葬した。数日後には、もう1匹も後を追うようにして事故死。最後の1匹は何とか親戚に預けられたが、先住猫と折り合いが悪く家出したまま帰らないそうである。 これらの体験によって植え付けられた悔しさ悲しさ、そして何よりも拭いがたい罪の意識から、もし今後またペットを飼うようなことがあれば、絶対に一生面倒を見ようと子供心に決意した。しかし何もできなかった無力な僕は、やはり世間から見れば「身勝手な飼い主」の一員なのだろう。 ※身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)につづく(工藤伸一)
-
社会 2011年01月28日 09時00分
お寺プロレスは伊達直人現象を克服するか
閉塞感漂う日本社会に感動をもたらした伊達直人現象に先行する動きが、プロレス界にも起きている。プロレスとチャリティを組み合わせた団体・お寺プロレス(雫あき会長)である。これは感動の陰で底の浅さも指摘される伊達直人現象の弱点を克服できる可能性がある。 お寺プロレスは、学生プロレスの現役やOB、OGを中心に結成された慈善事業ユニットである。プロレス興行で募金を集め、福祉施設に寄付する。今年の1月からブログやツイッターを開設して情報発信を行っている。 お寺プロレスの原点は、埼玉県越谷市の慈眼寺で2010年8月9日に実施した慶應義塾大学プロレス研究会(KWA)のチャリティ学生プロレスである。そこでは悪事(反則)の限りを尽くした悪役レスラーを最後は善玉が倒すという、勧善懲悪のわかり易い試合が展開された。会場で集めた約15万円の募金は、親のいない子供がいる乳児院に寄付された。 伊達直人現象は、『タイガーマスク』の中の人である「伊達直人」を名乗る人物が、養護施設にランドセルを寄贈したことが発端である。このニュースが報道されると、全国各地で「伊達直人」や「矢吹丈」が続出した。この伊達直人現象には一過性の自己満足という批判があることも事実である。 日本は諸外国に比して慈善精神が希薄である。それは日本社会の宗教性が希薄であることが要因である。諸外国ならば宗教的活動として自然に寄付するところである。ところが、伊達直人ら漫画のキャラクターに仮託しなければ寄付できないところに、日本社会の底の浅さがある。 この点で、お寺プロレスは「お寺」を掲げるために自然に慈善と関わることができる。チャリティ興行という形で活動モデルが明確であり、一過性批判も回避できる。「お寺」と「プロレス」は斬新な組み合わせであるが、日本の伝統的な格闘技である相撲も、元々は神社に奉納されていたものである。慈善を媒介にした寺院とプロレスの組み合わせは、双方の活性化が期待できる。(林田力)
-
社会 2011年01月27日 16時00分
都会の若年性ホームレス
いまや30代〜40代のまだ若いホームレスは、新宿西口公園あたりだとめずらしくない。食べ物をゲットするルートを自己開拓、後は寒さを凌げればいいから新宿はうってつけの場所なのだ。 「お話できる事はありません。寒くなったら、西武新宿駅方面の地下街に移動して毛布に包まって寝ることがある」(40歳・男) かと思えば、本○選手似・金髪のAさん(35歳)は、河川敷派。ただし“一軒家”は、サイクリングロード脇という超目立つ場所にあり、厭世的ではないようだ。 「職場を解雇されたのをきっかけに住んでみようと思い立ち、もう数年になります。なかなかピアノが弾けないのが辛いかなあ」 という芸術派。体が悪いそうなので気をつけてほしいものである。 皆、けっこう普通の人なのに気付かされる。 女性ホームレスは、カップルで発見することが多い。実際、パンチパーマ男と仲良く川を渡る、髪がぼさぼさの20代の無理目全裸美人を河川敷で見たこともあるので、セクシー系女性河原生活者の存在、それにホームレス同士でカップルになっているケースは、雑誌の嘘ネタや都市伝説ではないのだ。 一週間やったら、ホームレスは抜け出せなくなる、という話も新宿では聞く。 「所持金が底をつくまで、と思っています。普通の格好をしてラーメンを食べに行くこともある。(笑)でもこんな生活を続けていると心細くなって、長生きしなくてもいいか…なんて思うようになるんです」(30歳・男) そうは言っても彼は、就活をすることもある。このように自力で復活しようとする人ほどホームレスになっていることも多いので、まさにそれ自体大きな社会問題だ。
-
-
社会 2011年01月27日 09時00分
市橋達也被告が潜伏していたオーハ島って、どんな島?
07年3月、千葉県市川市でイギリス人英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)の遺体が見つかった事件で、殺人、強姦致死、死体遺棄の罪で起訴された市橋達也被告(32)の逃亡手記「逮捕されるまで〜空白の2年7カ月の記録」(幻冬舎)が、1月26日に発売された。 市橋被告は大阪などで働いて金を貯め、沖縄・久米島近くの離島オーハ島で潜伏生活を送っていたことが明らかになった。オーハ島には都合4度渡ったと見られている。著書によると、島の名称や、移動手段について詳細には記されていない。ただ、足がつきやすい飛行機ではなく、沖縄本島から船で久米島に渡ったのは確かのようだ。 沖縄本島の西に位置する久米島まではフェリーで約4時間かかる。久米島の東に橋続きで渡れるのが奥武島(おうじま)で、オーハ島はその400mほど東にある周囲2.7km、面積0.37k平方メートルの小さな島。 オーハ島は明治時代末期から入植が始まり、最盛期の60年(昭和35年)には134人が住んでいたが、その後、沖縄本島への転出が続き、島が属する久米島町役場総務課によると、現在は70代のオジイ1人しか住んでいないという。昔はさとうきび生産が主たる産業であったが、現在は自給自足。観光スポットがないこともあり、よほど無人島や人口の少ない島に興味がある人でなければ訪れることはないだろう。 移動手段は基本的には久米島からのチャーター船。ただ、市橋被告は船では渡っていないもよう。かつて、奥武島からオーハ島へは干潮時に歩いて渡れたが、現在は船を通すために深堀した影響で徒歩で入るのは不可能と一般的にいわれている。潮の流れも早く危険と隣り合わせらしい。だが、実際には干潮時に浅目のルートをたどれば、かろうじて歩いて渡れるようだ。しかし、オーハ島側がかなり深いため、十分な注意が必要。そもそも、命懸けの逃亡生活なのだから、市橋被告は徒歩で入ったのだろう。 できるだけ人が少ない島に潜伏したい。しかし、船をチャーターしたのでは面が割れる。人が少なく歩いて渡れるというのが、市橋被告がこの島を選んだ理由かもしれない。といいながら、島のオジイと会話した描写には、逃亡と矛盾を感じたりもするが…。 突如、連日ニュースで報道され、次々にマスコミが入って島の平和が乱された。いちばん迷惑を被ったのは、静かに暮らしていたオジイだ。