大宝2(702)年、持統天皇は三河行幸を行った。『続日本紀』によれば、その帰朝の行程は三河国から尾張国へは旧東海道を行く陸路をとっている。その際、「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」と、長忌寸奥麻呂がこの捧呈歌を詠んだとされている。
また、知立市にある牛田町から山町の間を『ひくま』と呼び、牛田町にある西教寺は、山号を『牽馬山』(ひくまさん)といい、山町には現在でも南引馬、北引馬の地名が残っている。昔から三河の地は良馬の産地で、毎年、初夏の頃になると知立市で馬市が開かれるのが習わしで、設楽の山地で育った馬が、『ひくまの原』の大草原に集められていたという。
引馬野という場所は、この他に愛知県豊川市御津町の引馬神社説と静岡県浜松説があるが、昭和28年9月、当時の知立町長・加藤玉堂氏は知立引馬説を強く主張してこの万葉歌碑建立した。
知立市にある旧東海道の松並木は、慶長9(1604)年、江戸幕府が諸国に対し、五街道に一里塚と並木を設置することを命じたもので、その当時、幅7m、約500mにわたり、約170本の松が植えられていた。知立市の街道には側道があるのが特徴で、この地で行われていた馬市の馬を繋ぐためのものであった。
(写真:「引馬野爾」愛知県知立市山町)
(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou