その紹介記事中にも出てくる「身勝手な飼い主」という言い回しは、ペット問題を語る文章で必ずと言っていいほど良く見かけるもの。動物の命を軽視する風潮を非難する言葉だ。僕自身も憤りを感じる一人だが、それでもこのフレーズを目にするたび、ペットにまつわる悲しい記憶がよみがえり、激しく苦悶してしまうのである。
幼い頃から実家で一緒に育った飼い犬のゴローとは、幼なじみ同様に暮らしてきた。けれども犬の成長は早く、僕が中学に入る頃には、人間でいえば60歳。番犬として家の前の犬小屋に繋がれていたが、ある冬の日に近所の子供たちから、雪玉を投げつけるなどしてイジメられた。僕より学年が下の悪ガキどもの仕業である。叱りつけたらすぐに逃げて行ったものの、その時にはもう手遅れで。
ゴローはすっかり人間不信に陥ってしまい、家族以外の人間が近づくと猛烈に吠えたてるようになった。それ以降「猛犬注意」と触れこんでは、慣れない人が近づかぬよう注意してきた。ところがある日、妹がエサをやろうとしている時に知り合いが訪ねてきて、妹が「危ないからダメだ」と止めても「大丈夫」といって聞かずに近付き、腕を噛まれてしまった。
完治までに日数を要する大怪我となり、父は責任をとってゴローを殺処分すると言いだした。「知らない人を噛んだのは、番犬としての役目を果たしただけなんだ。どうして殺さないといけないの?」泣いて懇願しても「いったん人の血の味を覚えたイヌは、癖になってまた噛みつく」として譲らない。数日後、学校から帰ると犬小屋にゴローの姿はなかった。それから何日もの間、愛犬のことを思って泣いた。
当時、我が家ではネコも飼っていた。ゴローもそうだったがペットショップで購入したのではなく、増えすぎて飼えなくなった知人から貰い受けたのだ。しかし僕ら家族の住む社宅が老朽化のため取り壊されるとこととなり、引越し先はペットを飼うことが禁じられていた。そこでさらに貰い手を探したものの、見つからなかった。
3匹のうち1匹だけ貰ってくれるはずの友人の親が「やはりダメだ」というので自宅に連れ帰ったところ、身の危険を感じてパニックになったのか、どこかへ消えてしまった。翌朝、車に轢かれているのを僕が見つけ、父に手伝ってもらい埋葬した。数日後には、もう1匹も後を追うようにして事故死。最後の1匹は何とか親戚に預けられたが、先住猫と折り合いが悪く家出したまま帰らないそうである。
これらの体験によって植え付けられた悔しさ悲しさ、そして何よりも拭いがたい罪の意識から、もし今後またペットを飼うようなことがあれば、絶対に一生面倒を見ようと子供心に決意した。しかし何もできなかった無力な僕は、やはり世間から見れば「身勝手な飼い主」の一員なのだろう。
※身勝手な人類の一員としてペットを飼うということ(2)につづく(工藤伸一)