たけしといえば1972年、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習いとしてエレベーターボーイを始め、同年に相方のビートきよしと「ツービート」を結成。80年代の漫才ブームをけん引した後、日本の「お笑いBIG3」の一角をタモリ、明石家さんまとともに担い、長きにわたって第一線を走り続けている。また、日本国外では本名の北野武として、フランス芸術文化勲章を含め数々の賞を受賞した映画監督としても知られ、マルチな才能は多方面において健在だ。
私生活では、1981年に長男、82年に長女が誕生し、4歳年下の元漫才師・北野幹子氏とは83年に入籍。しかし18年3月、たけしは「オフィス北野」から独立し、愛人と報じられている18歳年下の女性と設立した新事務所「T.Nゴン」で芸能生活を始め、これまで苦楽を共にした幹子氏と今年6月に離婚したと発表した。
結婚当初から別居生活を続けてきたたけし。2018年3月発売の自著『ビートたけしのオンナ論』(サイゾー)では、「40年間で10日か、20日ぐらいは(自宅に)帰っている。自宅に帰らないんじゃなくて、要は居心地のいいほうに帰っているんだ。それがたまたまオネーチャンの家ってだけでね」と持論を展開し、愛人との生活を公にしていた。
自由奔放ぶりは結婚当初から炸裂していたようだが、1994年8月に起こした原付バイク事故は、芸能活動存続が危ぶまれるものだった。
当時、たけしは東京・新宿区の安鎮坂付近をスクーターで運転中、カーブを曲がりきれずガードレールの鉄柱に激突。4メートルも吹っ飛ばされて頭を強打し、意識不明の重体に陥った。幸いにも右側頭部頭蓋骨陥没骨折を含む重傷で済んだ。
たけしは奇跡の生還を果たし、同年9月に退院会見に臨んだ。だが、目の焦点は合わず、口元が大きく歪んだ重度の顔面マヒ状態。たけしの姿は世間に衝撃を与えた。
だが、たけしは「治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにします」「頭に入っているボルトのせいで金属探知機に引っかかる」などと自虐ネタで笑いを誘い、再び表舞台に復帰した。
さて、事故に遭ったそもそもの原因は何なのだろうか。たけしは、当時愛人と噂されていたタレントの細川ふみえ宅に向かう途中といわれていた。ふたりは、1983年放送の『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)で共演し、やがて交際に発展したようだ。また、事故の1週間前にたけしの別宅を訪れる細川を、『FOCUS』(新潮社、現在は休刊)に激写されていたのだ。
長らく、事故の原因について明言を避けていたたけしだが、2016年1月放送の『新春大売り出し!さんまのまんま30周年スペシャル』(フジテレビ系)で、当時を回顧。たけしは、夜中に“浮気相手”に会いに行く途中の事故だったと激白し、細川との関係を半ば認めた。さらにたけしは、事故で「死んでたらよかった」と告白。当時うつ状態だったことも以前明かしている。
一方の細川は、2007年に8歳年上の不動産会社社長と結婚。しかし“不倫略奪デキ婚”の上、夫の離婚前に結婚式を挙げる「重婚」だったため騒動が勃発。しかし、夫の会社が倒産し、多額の借金からわずか2年で離婚した。13年には一部週刊誌に「月収10万円で、生活保護受給を検討している」と困窮ぶりが報じられるなど、波乱万丈な人生を送っているようだ。
時代を股にかけてスキャンダル三昧だったたけし。これまで数々の女性たちの面倒を見てきたようだが、幹子氏との離婚で“一文無し”になったと、たけしは豪語している。オンナ遍歴もさすがに打ち止めだろう。