徳川家康による江戸築城の際、関東地方や東海道方面から木材が江戸に集められた。また江戸は大火が多く、その都度、木材を必要とした。そのため、江戸各所に材木置場ができたが、明暦の大火(1657年)で江戸中心部が焼き尽くされ、隅田川対岸の深川に材木置場がすべて移転してきた。
見事な丸太が水面を埋めて、ずっと続く。徳次ら子供たちは、丸太の上を遊び場にして木から木へ渡り歩いた。揺れる丸太から丸太へ跳び移るスリルは、少年には大きな魅力だった。まだ泳ぐこともできない子供が、丸太から足を滑らせて深い堀割に落ちたらどうなるか。そんな危険など子供たちは考えてもみない。
浮いている丸太は、跳び移る拍子にグラッと揺れて少し群れを離れる。すると群れを離れた丸太と残った群れの間に、堀割の水が見える。水は青く澄んでいた。
ある日、徳次は一人でこの丸太渡りに熱中していた。突然、「徳!」と熊八の鋭い声がした。声のほうに目をやると、熊八が緊張した目で徳次をじっと見ている。
徳次は、この遊びは危ないから止(よ)せと熊八から何度も言われていた。だからこの時、徳次は熊八が少し恐かったが「お父っあん」と言って岸に跳び上がった。すると、熊八はいきなり徳次を逞(たくま)しい腕の中につかまえた。
「徳、おめエ、あれだけ丸太の上で遊ぶなと言っているのがわからねえか…」と言うと、傍(そば)の車にあった荷綱をとって徳次の体をぐるぐると縛り上げた。そして、いったい自分に何が起こったのかわからずに、驚きと怖れで呆然としている徳次を、「行きな!」と否応なく川端まで連れて行った。
徳次は、あっと言う間もなく、堀割に突き落とされた。浅瀬だったが、縛られて自由がきかないので、水中で両足を動かすのがやっとだった。