『三河雑鈔』・緑野の池考では、「みどりの野の古くものに見えたるは、〜」とある。
『夫木集』・二三の巻雑の五には、「ことしおひみかはの池のあやめ草 長きためしに人はひかなむ」という御厳子女王の歌が掲載され、同集同巻同部に康平4(1061)年3月、子内親王ノ家ノ名所歌合で詠まれた和泉式部の歌「春ふかくなり行くままにみどり野の 池の玉ももいろことにみゆ」が、同集に「春雨のふりそめしより緑野の いけの汀ふかくなりゆく」という小待従の歌が掲載されている。
『松葉集』には「秋の目覚に当国の名所とした。されど先達説とりどりにて、其在り所いまだ詳でない。それはまず『三河国藻塩草』に緑野ノ池碧海郡粟寺村(桝塚東町)の地中にあり。俗に呼んで鷺草の池という」とある。
また宝暦5(1755)年5月、庄屋安五郎の『粟寺日記』の中に「家下之下りて三町余りのところに大小二つに池あり。人呼んで緑が池という。矢作川に注ぐよどみして幅広く、水草茂りて四季の草花たえず、昔から歌詠み人の訪れ多し」と書かれてある。
現在の緑野の池はその面影もなく、柳川公園の一部となり、休日には釣りを楽しむ人達の憩いの場となっている。
写真:「緑野の池」愛知県豊田市桝塚東町柳川瀬
(皆月斜 山口敏太郎事務所)