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2011年夏の甲子園(決勝前夜2) エースの復調を信じて待った「日大三イズム」

 キーマンは二番手・斎藤君(風多=二年生)ではないだろうか。西東京大会を終えた後、日大三に対してはそんな仮説を立てて観てきた。何故、二年生投手の好不調が気になったかというと、エース・吉永健太朗君の調子が読みきれなかったからである。

 準決勝・日大鶴ヶ丘との一戦だが(西東京大海)、吉永君は「変化球中心の投球」だった。ストレートが走らず、変化球で交わすしか手立てがなかったのである。しかし、決勝戦は別人のようなピッチングを披露。ストレートが走り、14奪三振。試合中盤からは左打者の膝元にツーシーム系の変化球に集め、緩急でも翻弄させる圧巻のピッチングをみせてくれた。
 吉永君の復活を信じていいのか…。
 同校に対し、そんな不安要素を抱くメディア陣も少なくなかった。

 系列校の卒業で、小倉全由監督も知る某ライターはこう評していた。
 「捕手の鈴木(貴裕)君に(吉永君は)救われたようなもの。西東京大会は彼の配球術で勝ち上がったといっていい。甲子園でも、1試合か2試合は、そういう展開になると思います」
 また、吉永君は春季大会もほとんど登板していなかった。怪我をしたわけではない。不振の原因は蓄積疲労だという。西東京大会が始まっても、まだ本調子は取り戻せなかった。しかし、前出のライターによれば、小倉監督は「決勝戦までまだ時間があるのだから」と、初戦を終えたころにも、吉永君を励ましてきたという。「調子が悪い」で切り捨て、『9人の精鋭』を絞り込んでいく指導者もいまだ少なくないだけに、同監督の励ましは吉永君の胸に響いたはずだ。
 小倉監督は「珍しいタイプ」の指導者かもしれない。すでにその名声は全国に伝わっているが、一般論として、有名監督は『朝練』には顔を出さない。「生徒の自主性」とし、意図的に顔を出さない指導者もいるが、小倉監督は違う。『朝練』『居残り』などの個人練習にはトコトン付き合う。かといって、頭ごなしに怒鳴りつけることはしない。
 西東京決勝戦後、「これだけ力のあるチームなので、甲子園に連れて行かなければというプレッシャーはあった」と涙ぐんでいたが、同校の勝因は『小倉監督の我慢』ではないだろうか。準決勝(西東京大会)で変化球主体の交わすピッチングしかできず、肩で息をするエースを見せられれば、救援投手を送りたくなる。「甲子園に連れて行ってやりたい」と思いながらも、最後まで教え子たちを信じる姿勢を貫いたのだ。

 甲子園・準決勝戦(対関西)、小倉監督は5回途中で斎藤君から吉永君にスイッチさせた。準々決勝までの4試合を1人で投げ抜いた疲労度を考えれば、「斎藤君でいけるところまでいきたい」と思ったはず。しかし、吉永君がマウンドに立った後、日大三高ベンチの雰囲気が変わった。
 やはり、「ここぞ」というときのエース投入は、選手を鼓舞させるものがある。日大三高ナインは、地方大会で苦しみ、試合を重ねながら復調していった経緯を知っている。だからこそ、ベンチの雰囲気も変わったのだろう。それは、『エース投入』が切り札となるよう、チームを導いた小倉監督の手腕でもある。
 当の吉永君だが、共同インタビューでも「不振脱出のきっかけ」を質問されたが、技術的な何かがあったわけではないそうだ。この2年間、優勝候補と称され、マウンドに上がり続けたため、重圧でマイナス思考になっていたのだろうか。

 決勝戦は節電対策で大会史上初の午前中にスタートした。試合前、ネット裏は「光星学院」を推す声が少し多かった。スコアは大差となったが、「自軍最後の攻撃前」の8回裏、光星学院バッテリーは「ボール球」も織り交ぜる慎重な配球を見せてくれた。集中力が途切れなかった証である。また何よりも、「隙を見せたらやられる」と思わせる迫力が日大三高打線にあったのだろう。(了/スポーツライター・美山和也)

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