プロレスリング・ノア代表取締役、三沢光晴が6月13日に永眠いたしました。訃報(ふほう)に際し、多くの皆様より温かい励ましを頂き、深く御礼申し上げます。この記事が掲載される7月4日にはディファ有明にて「お別れの会 〜DEPARTURE〜」として献花式が行なわれます。
今回は追悼の、これまでの三沢社長との思い出を書かせていただきたいと思います。
13日の広島大会当日は、GHCタッグ選手権として、チャンピオンのバイソン・スミス&齋藤彰俊選手に5月6日の「グローバル・タッグリーグ戦」で優勝した社長と潮崎豪選手が挑戦しました。試合中、齋藤選手が社長にバックドロップを掛け、齋藤選手は次の技を仕掛けようとコーナーに移動します。しかし、社長が動きません。普通なら転がるなど身体を動かし、仰向けになったり、次の技を防ごうとしたりするはずなのに、ピクリとも動きません。「動けるか?」との自分の問いかけに「動けない」と微かに答える社長。試合をすぐさま止めました。
バイソン&齋藤選手の手を上げると、小川良成選手、鈴木鼓太郎選手、浅子覚トレーナーが次々にリングに駆け上がります。自分は最前列にいた、いつも観戦に来ていただいている医師を呼び、リングに上げ応急処置を施してもらいました。救急隊が到着し、病院に搬送されましたが、社長は午後10時10分にお亡くなりになりました。
試合前には普通に会話をしていただき、コンディションも100%ではないものの、今出せる最高の状態で試合に臨み、試合開始後もいつも通りだったのに…。今でも信じられません。
社長との思い出といえば、1990年8月に千葉県で行われた合宿に帯同した際、1月に入社したばかりの自分に普通に接していただき、なぜか毎日、朝まで「UNO」をやっていたのを思い出します。
94年4月6日、博多大会で初めて社長の試合を裁きました(三沢&ジャイアント馬場さん&浅子VS渕正信&小川&大森隆男戦)。
99年10月25日、長岡大会で初めてメーンのレフェリングをさせてもらったのは社長の指名でした(三沢&小川&池田大輔&垣原賢人VS小橋健太(当時)&秋山準&志賀賢太郎&新崎人生)。
00年、ノアを旗揚げし、翌01年4月15日、有明コロシアム大会で初代GHCヘビー級王座決定トーナメントの優勝戦で初めてメーンでタイトルマッチを裁かせていただきました(三沢VS高山善廣戦)。
そして03年3月1日、日本武道館大会での伝説の「三沢VS小橋戦」。死闘をレフェリングし終え、新チャンピオンとなった小橋選手の手を上げると、自然と涙が流れてきました。その年のプロレス大賞ベストバウトを受賞し、「おめでとうございます」と言うと、社長は「おまえもオレたちと一緒に戦ってたんだよ」と独特な笑顔でニヤリと笑いながら言ってくれました。
レフェリーとなって19年、まだまだ半人前ですが、ここでは書ききれないほどのいろいろな経験をさせていただき、ここまで成長させていただいたのは社長のおかげですし、社長がいなければ、ここまでやってこれなかった、と思っています。ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
生前、どんな時でも全力で試合をすることを最優先にしてきた社長の遺志を継ぎ、選手、スタッフ一丸となり、リング上を激しく、熱く、盛り上げていきたいと思いますので、これからもプロレスリング・ノアを応援していただきますようお願いいたします。
◎早朝からファンが長蛇の列
この日ディファ有明で行われる「三沢光晴お別れ会〜DEPARTURE〜(献花式)」には徹夜組を含め、数多くのファンが長い列を作っていた。
駐車場内には仮設トイレ、記帳用のテントが設置され、会場内には三沢さんの等身大の遺影と1000基近い供花が供えられている。
実行委員長を務める百田光雄副社長は「出来れば『1人でも多くの人にお別れをしてもらいたい』というのが、実行委員長としての願いです。かなりの人に(献花に)来ていただけるんじゃないでしょうか」とファンに呼びかけた。
そんな三沢さんの人気や人徳を表すように、最後のお別れをしようと前日の16時30分から並んでいるという熱心なファンも。この日も早朝から続々と会場に詰めかけ、長蛇の列をなしていた。
一番乗りしていた都内在住の30代の男性会社員は「不死身の男だと思っていたのに。お疲れ様でした。なんで逝っちゃったんだろう…」と三沢さんの早すぎる死を残念がっていた。